文句が、神に扮した人によつて伝へられる。
村々の若者は、村の中心であつた。村の中心とは、神事に奉仕すると言ふことである。此神に仕へる為には、成年式を済して、資格を得なければならぬ。成年式をあげた若者が、村々の中心になる。神の祭りの前後には潔斎をして神になるのだ。神の唱へる文句は、村の若者のみに、非常な大切なものとして伝つた。此らは皆、神の自叙伝である。
ところが、是に随伴して言ふことは、相手の者をきめつけてかゝることば[#「ことば」に傍線]、村人に何の同情をも有たずして、其生活を脅す、低い精霊を圧へつける神々のことば[#「ことば」に傍線]である。此ことば[#「ことば」に傍線]は「自分は強い神である」と言ふだけでは、効力を示さない。即、相手は、どう言ふ弱点を有つて居るか、其弱点を自分はよく知つて居る、と言へば、勝《カチ》になるのである。汝は何時出来た。お前は何時どうした。かういふ自叙伝が複雑になり、相手の来歴まで述べる様なことば[#「ことば」に傍線]が、次第に出来たと思はれる。
一人称の律文が、二人称の律文を含む様になつて来た。而も此自叙伝の歴史が律文で伝へられた。かうして、日本に出来て来た口頭の文章が、古い語《ことば》で言ふと寿詞《ヨゴト》である。寿詞といふのは、只今の祝詞《ノリト》の本の形である。祝詞は、只今では変つた形をして居るが、もとは、土地の精霊に言ひ聞せることば[#「ことば」に傍線]であつた。更に溯ると、神自身の自叙伝であつた。祝詞の古いものゝ中には、神の自叙伝の様な処もあり、神が、相手の欠点を知つて居ると言ふ様な事も見せて居る処がある。是が寿詞である。
此崩れた形が、万葉集にある。そこには延喜式の祝詞のものよりも、古い形が遺つて居る。つまり寿詞の中に、神の自叙伝、相手の来歴を述べるものがあるので、其が其まゝ展びて叙事詩となつた。――此は、平安朝頃の物語よりも更に古い物語であつて、今の語で言へば、叙事詩である。かうして歴史を語る、尠くとも事実あつたといふ、歴史を語り伝へるものが、寿詞より分れて来る。処が、祝詞の様に、正式な堂々たるものにならず、短いものになつて了うた。即、肝腎の処のみ遺つて、他の部分は捨てたと言ふ如きものがある。此を呪言と言ふ。
即、長い文章の中から、短い部分が脱落して来る。此俤は多少とも、万葉集の中に留めてゐる。
三
ところ
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