から歌をかけ合せ[#「かけ合せ」に傍線]る。此が貴族の間に行はれると「歌合せ」になる。其系統は、歌垣が宮中へ入つて、踏歌となる。即、男女が歌をかけ合ふ。此が歌合せの原形である。恐らく、「歌合せ」は、巻一の天智天皇の時代、中臣鎌足が審判になつて、春秋の諍《モノアラソヒ》をなしたと伝へられてゐるのが、最初であると思ふ。此審判の時、額田《ヌカタ》[#(ノ)]女王一人が、作つて答へたと見えて居るが、私の考へでは、集つた人皆が作つたが、額田[#(ノ)]女王の歌が、ぬきんでゝ居たと思はれる。
歌合せは、文学発生の歴史より見ると、重大な影響を有つてゐる。此形から変態化したものが、「連歌」である。歌合せの影響よりも、問答の形、即、二人で歌の両方をよみ合せる形、つまり、歌垣のかけ合ひ[#「かけ合ひ」に傍線]の文学化したものが「連歌」である。文学史より見ると、平安の末百六七十年の頃、盛んになつたものであるが、もつと、早い時代にあつたものと思ふ。
此連歌が、上の句と下の句とのみならず、其に五十句・百句を次ぐ様になる。此が古典的に興味を失つて、誹諧が発生する。室町の時代から、発句が独立して来たが、独立した芸術様式と見られるのは、徳川時代になつてから、即、芭蕉になつてからである。
かう考へると、ずつと長い歴史が、源をほゞ一にして、出発して居る。こゝまで述べた歴史の中、誹諧を除けば、皆万葉集によつて、解く事が出来る。其つもりで万葉集を文学的に講義したらと思つてゐるのである。
底本:「折口信夫全集 1」中央公論社
1995(平成7)年2月10日初版発行
底本の親本:「『古代研究』第二部 国文学篇」大岡山書店
1929(昭和4)年4月25日発行
初出:「万葉集十回講座講演」
1926(大正15)年5月
※底本の題名の下に書かれている「大正十五年五月、万葉集十回講座講演」はファイル末の「初出」欄に移しました。
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2007年7月13日作成
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