者と、人との問答になる。そして、神になつてゐる人と、其を接待する村々の処女たちとの間の問答になる。其問ひなり答へなりを古い語で片歌と言はれて居る。片歌が二つ並んで一首をなしてゐるのは、皆問答の形である。
記・紀の日本武尊が、東《あづま》の国を越えて、甲斐に出られた時、
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新治《ニヒハリ》 筑波を過ぎて、幾度か寝つる
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火焼《ホタキ》の翁が、此に和して歌つて居る
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屈《カヽ》なへて、夜には九夜。日には十日を(古事記中巻)
五 七 七
五 七 七
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此は対立した歌である。
片歌は、離す事は出来ないが、後には、片歌だけのがある。両方を、一人で詠むと言ふ事が出来て来る。此は、もう旋頭歌である。旋頭歌は、厳重に五七七で切れてゐる。旋頭歌はつまり、二人のかけ合ひ[#「かけ合ひ」に傍線]の形をば、一人で言ふ形になつたものである。
又、歌垣と言ふ事がある。片歌の問答が発達したのは、神に仮装した男と、神に仕へる処女、即其時だけ処女として神に接する女とが、神の場《ニハ》で式を行ふ。即、両方に分れて、かけ合ひ[#「かけ合ひ」に傍線]を始める。神と人間との問答が、神の意義を失つて、春の祭りに、五穀を孕ませる為の祭りをする。其は、神と村の処女と結婚すれば、田畑の作物がよく実のると思つたからである。
神々の問答が、神と処女と、そして村の男と女とのかけ合ひになつた。即両方に男と女とが分れて、片歌で問答する。何れ、男女の問答であるから、自然と性欲的な問答になつて来る。其が、相手の歌を凌駕すると賞讃せられ、又、女が男をやりこめると、其女がもてはやされた。で、此歌垣の場《ニハ》の問答が、才能頓智を主とする様になつて来た。此が、段々と変つて来て、こゝに短歌の形が分れて来る。
短歌が固定したのは、藤原の都の時代、即、人麻呂の頃である。短歌をして明らかに人々に意識させる様になつたのは、人麻呂の功績である。
短歌の現れた原因は、もう一つ大歌にある。其は、歌を作る宮廷詩人と、田舎の即興詩人とが、別々である、と言ふ時代ではない。皆一つの所から、生れて来るものである。長歌の結末が離れて来る。即、五七五七七が独立して、此方面で発達した歌は、謡ふ形として、非常に、もて囃された時代であつた。此時代になると、ほんとうに、長歌・旋頭歌
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