いふことになる。起算点を醍醐天皇に置くと、平城天皇の時世となつて、其御代始めの大同元年まで、かつきり百年になる。処が、一代前の宇多帝から数へ出すと、平安朝最初の天子、桓武天皇を斥《サ》したことになる。年数は百年以上、といふ事が出来る。処が、此文章の解釈がいろ/\で、まづ正直に、百年余といふ伝へを守り、起算点を一代前に据ゑて、桓武説を提出してゐるのは、袋冊子である。併し奈良[#(ノ)]宮[#(ノ)]御代といふ言葉は、度外視せられてゐる。
処が、奈良[#(ノ)]宮の奈良なる字に執著してゐると思はれるのは、人麻呂勘文以下の「聖武説」、栄華物語の「高野女帝(孝謙・称徳)説」の二つである。此両説は勿論、単に、仮名序から導かれたゞけでなく、学者間の言ひ伝へ、或は古今雑部の
[#ここから2字下げ]
神無月 時雨ふりおける楢の葉の 名に負ふ宮の ふる辞ぞ。これ(文屋有季)
[#ここで字下げ終わり]
と言ふ歌なども働きかけてゐるものと見るべきであらう。なる程、万葉集一部に収めてゐるのは、雄略帝以下淳仁帝の四年(宝字五年)までの作物である事は、此書の記載を信じれば言へる。其に今一つ、万葉集が奈良朝のものだ
前へ
次へ
全19ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング