[#ここから6字下げ]
月日や夜はとほり過ぎて行くけれども、父母のたまの如き姿は、忘れない事よ。
[#ここで字下げ終わり]

父母の円満な姿を、「玉のすがた」と言つたので、其と同じ様で、一歩進めてゐるのが前の歌です。一つは、みづらの中に入れようと言ひ、一つは直接に讚へてゐるのだが、結局は、父母の霊魂の一部を、旅に持つて行つて、自分の守りにしようと考へてゐるのと、さうした習慣が変じて別の歌になつて出てゐるのです。家に居る人が、自分のたま[#「たま」に傍点]の一部分を添へて、旅行者に持たせるのは、古代日本では主に愛人か、妻がする形式になつてゐますが、沖縄では、最近まで妹や姪・女いとこ[#「いとこ」に傍点]のする事だつたのです。この二首は、親の生身の霊を分割する信仰から出てゐると言へます。前の歌は、母の霊魂を身につけて行きたいと言ふ、信仰上の現実が、装身具の玉として身につけて行きたいと言ふ、文学的な表現に推移してゐる事が訣りませう。後の歌にしても、自分の身体に添へて行く父母の霊魂から、玉になり、それを通り越して、父母の姿そのものをほめて、玉と感じてゐるのです。

[#ここから3字下げ]
人言のしげきこのごろ。玉ならば、手に纏《マ》きもちて、恋ひざらましを(四三六)
[#ここから6字下げ]
人の評判がうるさい此頃だ。あの愛人が玉だつたら、人目につかない様に手に纏きつけておいて、常に離さないで暮して、こんなにこがれないで居られたらうのに……
[#ここで字下げ終わり]

この歌は、表現が二つに別れて、気の多い言ひ方をしてゐます。五句が「手にまきもちてあらむと思ふ」と単純にあるべきのが、まう一つ別な方に進んで、「恋ひざらましを」といふ風に、結んでゐる。かうした表現は、万葉集の歌の悪い方面を示してゐることになります。一首の内容は、「あもとじも」の歌と同じ事を言つてゐるのです。この類型は非常に多いのです。かういふ言ひ方をするのは、まう一つ前に、霊魂なら、ある点すぐ自由に分離したり、結合させたりすることが出来るといふ考へがあつたからの事です。その表現が、霊《タマ》の中心観念から装身具の玉に移つて行つても、ついて廻るのです。文字の上にも、信仰の推移が、非常に影響してゐる事を考へなければなりません。
所が、玉の歌には、まだ相当に訣らない歌があります。

[#ここから3字下げ]
沖つ波来
前へ 次へ
全7ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング