で、使ふにも気のへる様な程度なのを、たしない[#「たしない」に傍線]と言ふのは「足しない」ではなくて、物惜しみする意のたし[#「たし」に傍線]の古意を存してゐるのであらうか。尚人をたしなめる[#「たしなめる」に傍線]など言ふ場合は、心掛け足らぬを叱つて、注意を喚び起す意とも思はれるが、どうやら、はしたなむ[#「はしたなむ」に傍線]の略転らしく考へられる。
○おいによ[#「おいによ」に傍線] 大阪では、夫より妻が年がさな場合に、其の妻をおいによ[#「おいによ」に傍線]と言ふ。又さうした夫婦関係をも言ふ様で「向《ムコ》のうちは――や」などゝも使ひます。おいによおぼお[#「おいによおぼお」に傍線](老い女房)の略語なる事は勿論です。おい[#「おい」に傍線](連用)おゝ[#「おゝ」に傍線](終止)の二つの活用は見られます。連用はて[#「て」に傍線]に接して、おゝて[#「おゝて」に傍線]・おゝた[#「おゝた」に傍線]などゝなります。おい[#「おい」に傍線]・おゝ[#「おゝ」に傍線]は勿論老ゆ[#「老ゆ」に傍線]なのですが、単に老年を現すことはなく、齢を比較して、誰は誰よりもおゝてる[#「おゝてる」に傍線]と言ふのが、此語の普通の用例です。又、さう言ふ夫婦を、嘲笑の気味合ひで、だんじり[#「だんじり」に傍線]と呼んでゐます。あの地では、地車《ダンジリ》を囃すのに「おゝた/\」と言ふ語で、煽り立てゝ、地車を進めるのです。「追へ/\」「追うたり/\」などゝ同じ用語例です。だから、おゝた[#「おゝた」に傍線](老うてる)と言ふから、だんじり[#「だんじり」に傍線]を聯想したのです。此語は、二つともに、四十以上の人の外には使ひません。
○もろに[#「もろに」に傍線] もろに[#「もろに」に傍線]と言ふ語、前にあゝは言うたものゝ、尚、不安な処があるので、いろんな人に問うて見た。清水組にゐる鈴木は、やはり「諸《モロ》に」の義で、全体の意とし、その使うてゐる為事為《シゴトシ》が、最近に「足場がもろに[#「もろに」に傍線]倒れるといかぬ」と言うたと教へてくれ、村田春雄君は「電柱がもろに[#「もろに」に傍線]倒れて来た」との例を寄せられた。山中共古先生の御相談願ふと、鈴木と同じく「諸・両」説で、恐らく、大工仲間の術語だらうと言はれた。此頃の色物席は恐ろしく不純で、お上品になつた為に、自在な東京下流の対話は、講釈場でなくては聞けぬ様になつた。わたしは、四五日方々の席に出かけて、下の用例を筆記して来た。
[#ここから2字下げ]
なにしろ千鈞の鼎をもろに[#「もろに」に傍線]挙《サ》さうと言ふ力だからたまらない。(三国志、宝井馬琴)
為懸《シカ》けてあつた崖だから、孔明の合図と共に、もろに[#「もろに」に傍線]こいつが畳めると、魏の総勢が谷間へ落ちこんだ。(同じく)
砂袋切つて落すと、恐しい勢で、城の裏山から城を目がけて、もろに[#「もろに」に傍線]水が流れこむ。(同じく)
片岡は御家人《ゴケニン》だ。穢れ役人に、調べを受ける筋はねえ、とぐつと裾を捲つて、褌をもろに[#「もろに」に傍線]出して、坐りこんだ。(河内山、神田伯治)
ぶつ倒れた奴の頭を、左手を伸して、もろに[#「もろに」に傍線]つかんだ。(清水次郎長、神田伯山)
杉の市が杖でもつて、川の水を払つたからたまらない。近江屋勘次、頭からもろに[#「もろに」に傍線]水を浴せられた。(藪原検校、小金井蘆州)
[#ここで字下げ終わり]
一・二の例は、脆系統の軽々と[#「軽々と」に傍線]・たやすく[#「たやすく」に傍線]とも、受け入れられる。三・四・五は、無雑作と広義に拡充させて見ると、どうかかうか、説明はつくやうである。村田君の場合もまづ、訣りはするが、尚、不安心である。其で、今《モ》一度「両・諸」の方から探りを入れて見る。全体・すつかり[#「すつかり」に傍線]と拡げて見ると、一層訣り易い事は事実である。「電柱がもろに[#「もろに」に傍線]倒れた」なども「根柢から」と言ふ考へを下に持つた、全体・すつかり[#「すつかり」に傍線]と、説けばよい様だ。併し、現在の用語例は、全体・すつかり[#「すつかり」に傍線]にあるとしても、勢籠つた・鋭い・すばやい[#「すばやい」に傍線]などの言語情調を度外してはならぬ様である。今日の用語例は、語原的に言ふと、確かに「両《モロ》に」で、相撲などの術語から出たものと思はれる。さうでないとすると、近世的の語として「両《モロ》に」など言ふ語の発生は疑はしい。此処に尚、聊か「脆《モロ》に」語原の可能が許されさうに思ふ。さうとすれば、全体・すつかり[#「すつかり」に傍線]・根柢からなど言ふ用語例は、聯想から「両《モロ》」に結びつく為に出来たもの、と説明すべきであるやうだ。尚、序に注意すべきは、江戸語では副詞の語根を強くする為に、三音・四音になるのを避けようとしてゐる傾きが見える。「右の腕がぶら[#「ぶら」に傍線]になつた」「ぽか[#「ぽか」に傍線]とぶつ」「仰(あお)に倒れた」など言ふ類で、もろに[#「もろに」に傍線]が、脆くも[#「脆くも」に傍線]に、一縷の関係を繋いでゐるのである。
○女の家 節供《セツク》は和漢土俗習合して出来たものと考へる。そして季節の替り目を恐れる風、及び祭り・物忌みに、男は皆宮社に籠り、女ばかりが家にゐて謹んで籠つたことがあるであらう。此は古いことだが、万葉集巻十四に、
[#ここから2字下げ]
誰ぞ。此家の戸《ト》押《オソ》ぶる。新嘗《ニフナミ》に我が夫《セ》をやりて、斎《イハ》ふ此戸を
鳰鳥《ニホドリ》の葛飾早稲《カツシカワセ》を新嘗《ニヘ》すとも、その愛《カナ》しきを、外に立てめやも
[#ここで字下げ終わり]
とある。近世まで、かういふ風に男女別居して、物忌みする風は、必、あつたであらう。西[#(ノ)]宮の居籠《ヰゴモ》りなども、宮籠りに対した語で、祭りに宮に籠つた風のなごりを逆に見せてゐるのである。それで恐ろしい季節の替り目を別つ節供の日に、男が宮籠り、女の居籠ることがあつたので、五月五日を女の家(女殺油地獄)と言ふ様な――男だけの祭り故――諺もあつたであらう。尤、近松の頃には、此語の意味は訣らなかつたであらう。
○おとごぜ[#「おとごぜ」に傍線] 伝教大師・性空上人・皇慶律師などに使はれた、乙護法《オトゴホフ》といふ護法童子は、恐らく別々の者でなく、術者の手に転々して役せられて居た者、と考へられたであらう。さすれば、頗長命な役霊(すぴりつと[#「すぴりつと」に傍線])である。此護法の名が、民間に遍満して、一種滑稽な顔をした、ぱつく[#「ぱつく」に傍線]風の小魔と考へられ、乙護々々と略称されたのが、乙御と言ふ風の民間語原説から、乙御前《オトゴゼ》と還元する様になつて、一種の妖怪と考へる事になつたのであらう。
○髪形と子ども 子どもを、髪の形で類別すること、古代・近代一列である。うなゐ[#「うなゐ」に傍線]・めざし[#「めざし」に傍線]・をはなり[#「をはなり」に傍線]・ひさごばな[#「ひさごばな」に傍線]・かぶろ[#「かぶろ」に傍線]は、あまりに古い名である。わらは[#「わらは」に傍線]なども、とり上げずに、乱れたい儘に、短くはらゝかした髪である事は、わらゝば[#「わらゝば」に傍線]・はらゝ[#「はらゝ」に傍線]などいふ、H音・V音の音価動揺時代を知つた人には訣りきつた、所謂ばらけ髪である。大童などいふ語も、子どもの髪に見立てたのでなく、わらは[#「わらは」に傍線]其者が、ばらけ髪を言うた事を示してゐる。河童の事を河郎《カハラウ》・かつぱ[#「かつぱ」に傍線]と言ふのが、河わらは[#「河わらは」に傍線]・河わつぱ[#「河わつぱ」に傍線]から来たのだ、と言ふことは疑ひがない。だから、河郎・かつぱ[#「かつぱ」に傍線]が、絵にある形の頭をした者に定つた事は、極《ゴク》の近代でないと知れる。唯、あんな小さな形にしたのは、例の民間語原と言うてよからう。山わろ[#「山わろ」に傍線]などは、爺さんの様に考へてゐた者も、多いではないか。此場合も、尠くとも、山住みの気安さに、髪をふり乱してゐたのを斥したものであらう。がつそ[#「がつそ」に傍線](<かふそ)が川獺から出た物で、河童と一類に考へられた事も、明らかで(山島民譚集)ある。大阪では、四五十からの上の人は、昔の医者・修験などの頭の、所謂総髪をがつそ[#「がつそ」に傍線]といひ、其に似て、子どもの四方へ髪を垂れた頭をも、がつそ[#「がつそ」に傍線]と言ふ。其脳天を小さく円く剃つたのが、けしこ[#「けしこ」に傍線]・けし房主[#「けし房主」に傍線]である。東京の子どもの、おかつぱさん[#「おかつぱさん」に傍線]とがつそ[#「がつそ」に傍線]とが、おなじもので、名も関係深いのはおもしろい。
○さるぼ[#「さるぼ」に傍線] 虹が、雉の尾の様に見えた事は、推古紀かにあつたと思ふが、かの天象を、動物の尾に譬へる事は、外にもある様である。大和北葛城郡|志都美《シツミ》村辺で、虹の片脚の僅かに立つてゐたのを見て、七十歳の老婆が、さるぼ[#「さるぼ」に傍線]といふ名を教へてくれた。ぼ[#「ぼ」に傍線]は VO の発音で、大和人は、を[#「を」に傍線]を正しく WO とは言へぬのである。即、猿尾の義かと思ふ。
○あおち[#「あおち」に傍線]貧乏 稼いでも/\世帯のよくならぬのを、大阪では、あおち[#「あおち」に傍線]貧乏と言ふ。あおつ[#「あおつ」に傍線]は煽つである。戸が風にあふられる事にも言へば、団扇で音たてゝ扇ぐ場合にも使ふ。思ふに、ばた/\と立ち働いて、ぢつとして居る間もないのに、而も貧乏すると言ふ意味の考へ落ちだらう。
○祭りの日 徳島市中では、本祭りをほんま[#「ほんま」に傍線]、其前日がよみや[#「よみや」に傍線]、祭りの翌日がしよおじり[#「しよおじり」に傍線]である。しよおじり[#「しよおじり」に傍線]の日は、午後からお宮が賑ふ。尚、三月節供翌日を、やはり、しかのあくにち[#「しかのあくにち」に傍線]といふ。
○れ※[#小書き平仮名ん、87−16]ぞ[#「れ※[#小書き平仮名ん、87−16]ぞ」に傍線]・れ※[#小書き平仮名ん、87−16]ど[#「れ※[#小書き平仮名ん、87−16]ど」に傍線] 此語は、大和国中に限る様である上に、殊に北南葛城郡が中心になつてゐる処を見ると、其処に、起原があると仮定しても、よい様だ。此で思ひ当るのは、当麻寺の練供養《ネリクヤウ》である。此は、頗名高い法会で、大和歳事記を拵へれば、春の部の王様とも言ふべき行事ゆゑ、此地方の人には、祭りとも、休日とも言ふ風の聯想が起つたのであらう。恐らく練道《レンダウ》供養のれんどお[#「れんどお」に傍線]が、れんど[#「れんど」に傍線]>れんぞ[#「れんぞ」に傍線]となつたものであらう。練道と言ふ語は、行道など言ふ語があるから、言はないとは思はれぬ。



底本:「折口信夫全集 3」中央公論社
   1995(平成7)年4月10日初版発行
底本の親本:「『古代研究』第一部 民俗学篇第二」大岡山書店
   1930(昭和5)年6月20日
初出:「土俗と伝説 第一巻第一―三号」
   1918(大正7)年8〜9月
※底本の題名の下に書かれている「大正七年八―十月「土俗と伝説」第一巻第一―三号」はファイル末の「初出」欄に移しました
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2007年4月8日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全2ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング