は、聊か樣子の違つたものである。つまり此から先の人間の生活を、思ひのまゝのいさぎよいものにする――その手はじめに、自分の生活を感情の趣くまゝにふるまうて行く。さうしてその整頓せられて出た結果が、次代の人生の規範として備る。
かう言ふ生活の、實際に現れて來るより前に、言語を以て表現する藝術に、さう言ふ未來の心ゆく姿をば、望み見ることの出來る境までは、行くことが出來るのである。
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たとへば、とるすとい[#「とるすとい」に傍線]の樣な人――。現れたところでは、一生を氣隨にふるまつた人のやうにも見える。併し、彼自身が、人間全體の代表であつた形は、はつきりと見られてる。相應に當時の人々からも認め難く思はれて居た氣まゝな欲望を持つた彼である。だが皆次代の人生をそこまでおし擴げようとして居たものだと言ふことに、やつと人々は、後で氣がついた。
たゞ、れふ・とるすとい[#「れふ・とるすとい」に傍線]は篤信者であつた爲に、神の過去の姿をふり返りみる習しが深かつた。それである點、彼の美は、未來へばかり向けられてゐたと言ひにくい處も出て來た訣である。
これが、文學・藝術と、宗教との違ふところである。
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文學は口説《クゼツ》の藝術であつた。その爲に内に持たれてゐるものは、人の心へ直に論理的にはたらきかけた。だから人々は、各その人生を以て文學を受けとらうとした。それで、文學はじまつて以來、正當な批評の準據は、人生にあつた。
その文學が、人生をどう扱つてゐるか。曲つてとり扱つて居はすまいか。かう言ふ立ち場が最古い文學の時代から、その批評にはあつた。
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今の人生――と言ふよりも、今の人生の基準になつてゐる過去の人生が、だから、批評の準據として、文學の正面に立てられる。次代の美しい人生を想見してゐる文學が、其とぴつたりとして來る事は、あたり前のことである。
かう言ふ、批評の危がつて、人生の破壞だと憤つた其文學は、後に見ると、實は何でもないこととして、現實のことに、平靜な姿でおちついてしまつてゐる。
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「人形の家」が今も問題を提供して居るやうに見えるのは、實は錯覺である。つまり、さう言ふ女性解放を戀ひ望んだ歴史を、時々ふり返つて見る――さう謂つた一種の歴史劇と見てよいのだらう。尤、日本の國では、まだのら[#「のら」に傍線]の家出を
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