に變更して表現するといふ處に、文學の上の虚構の、眞の意味がある。實際の生活より、もつと完全な生活を求めるための虚構だと言ふことが出來る。たゞ、芭蕉にも見られることは、どうすれば文學的になるか、どうすれば藝術感豐かな文學になるかといふ立ち場から、素材を變更することは勿論ある。さうでなくて、素材が完全なものに變更せられて居つた場合でも、不幸な芭蕉の如く、剽輕な曾良の日記に裏切られて、完全に到達した素材が、一擧にして、極脆弱な、文學的なものを狙つたゞけの變更と思はれるものに、一時でもなることがあるのだ。虚構が問題になるといふ事は、いかにも作り物らしい生活が詠まれる爲に、起つて來ることであつて、完全な段階に達すれば、虚構が虚構だといふ曇りを拂拭して、そんな問題を起さぬところにしづまる訣だ。
赤彦の作物の中にも幾多の虚構を露呈したものもあるが、其を感じさせないところに達したものを、我々は引例することがいくらでも出來る。だから、作家が心構へとして、ふいくしよん[#「ふいくしよん」に傍線]を論ずるのは勿論さし支へのない事だが、必虚構あらざるべからず、といふ風に開き直つて言ふやうなことを言ふのは、意味
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