我々として、どの點まで信頼すべきであると訣つてはゐたけれど、其以上の點まで、傳記などをすべて信頼してゐたのだ。だから、芭蕉の作物がすべて、眞面目な動機から出てゐる、といふより生活の眞實から生れてゐると、考へ過ぎてゐた。しかし、芭蕉といへど、日本の文學者で、虚構の文學の畑に育つた人である以上、虚構を如何にして眞實げに表さうといふ苦心をしたか、我々の考へるべきは、そこにある。
しかし、芭蕉の書いたものだけ見てゐると反證があがらぬが、其と竝行して、或同行者が芭蕉の行動を緻密に書いてゐるとしたら、芭蕉の虚構の文學は、實際の記録によつて破壞せられる。だが、破られて了ふと思ふのは、實は我々の持つてゐた小偶像が破壞せられるだけで、芭蕉の文學の眞實性は、決して亡びるものではない。
いちばん適切に、簡單にその事の言へるのは、曾良の書いた、「奧の細道隨行日記」である。江戸を出發して奧州から北陸を※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つて戻つて來る間に、此眞實の記録書と併行して、如何に芭蕉が虚構を逞しくしたかゞ、はつきり訣る。がそれだからと言つて、文學者としての素質を芭蕉に疑ふのは、わからない人である。
それにしても、箇所々々を見てゆくと、あまり虚構が多いのに、驚かずにはゐられない。其中で、最劇的な――誹諧だと「戀の座」のやうな場面は、皆さんが御存じである。
越後路の末に、親不知「市振《イチブリ》の宿」に來た場面だ。芭蕉といふ人は、老達の人だから、書くにもなか/\考へてゐる。其處が、市振か其以外の處か訣らぬやうに書かれてゐるのだ。尤、これ以外にも、「奧の細道」には是に類似の所がいくらもあるから、虚構の事は隨處に成立する。市振の處をとつて見ると、
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元祿四年七月十二日、――申ノ中刻市振ニ着宿
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といふ風に、隨行日記では書いてゐる。「奧の細道」で其に當る所を見ると、
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――越後の地に歩みを改て、越中の國市ぶりの關に至る。――
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文月や六日も常の夜には似ず
あら海や佐渡に横たふ天河
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といふ句があつて、次に、
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けふは、親しらず・子しらず・犬もどり・駒がへしなど云北國一の難所をこえてつかれ侍れば、枕引よせて寢たるに、云々
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