」は太字]の地で、如何にも「丘傍《ヲカガタ》」と言ひ替へてもよい気のする地である。ところが、後漸く語感の変化に誘はれて傍の丘又は、里の傍の丘と言ふのに近く、聯想の移動して行つて、久しく固定したまゝに用ゐられた地である。
傍丘の名のついた其丘は、近代「馬見山《マミヤマ》」と称へる丘陵で、北は法隆寺の南方の岡崎と言ふ地から起り、その丘陵地帯が西から南へ廻り、東に向つた所に又、岡崎と言ふ地があつて、そこで岡はきれてゐる。この岡崎から岡崎に渉る丘陵を「丘」と言ふやうになつたので、元はその「丘」のほとりの平地帯が、傍丘であつたのである。この傍丘地方にある丘故、遂に丘を傍丘といふ風に考へ、片岡山と言ふ名で、その丘を呼ぶのが、古くから岡の方に移つた地名なのである。
片岡は分布の多い地名で、山城にも、名高い二つの片岡がある。万葉には、何処の丘陵地帯を言つたのかわからないが、「片岡のこの向つ尾に椎まかば……」(巻七)と言ふのがある。「傍丘山即この向ひの丘《ヲ》なる傍丘山」と言ふ風に解するやうだが、こゝも亦、「岡の傍の村(平坦地)の向ひの岡」と言ふことで、岡から起つた地名の、其地の前に立つ岡をさすのである。
三 竪橋との関係
次に誰でも承認しさうな例は、はしだて[#「はしだて」は太字]である。天梯立など言ふと、今も、我々の中に生きた語序として歴然として残つてゐるのだが、おなじ古廃語らしい感じにある「かけはし」(桟)「いははし」「つぎはし」などとは、全く別の素質を持つてゐることが考へられる。普通、橋が横(水平)か、勾配を作つてか懸けられてゐるのに対して、竪《タテ》(垂直)に上屋や屋上や、又軒先から上の空にかけられることがあり、時としては信仰の上から――その場合が却つて多いのだらうが、屋上の虚空を横ぎつてある地点に渡されてゐるものと考へた――さう言ふ橋に到るまでも、(まだ間木《ハシ》と言つた語原観を意識しながら)はしだて[#「はしだて」に傍線]と言つてゐた。我々はやゝ遅れて、梯《ハシ》の子《コ》・はしご[#「はしご」に傍線]と言ふ愛称を加へた語ととり替へるやうになつた。かう言ふはし[#「はし」に傍線]の両語序に渉つて聞える様に出来てゐるのが、くらはし[#「くらはし」に傍線](倉梯)である。空想上の天の梯を、さう頻繁に考へなくなつた頃に、倉梯立と言ふやうな語原意識を持つたまゝで
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