え、又自然な並べ方のやうにも見られるだらう。
たとへば、「百済[#(ノ)]池《イケ》津[#(ノ)]媛」など言ふのを順当と解すれば、媛といふ称号は、唯の敬称のやうに、近代の感じ方では思はれるだらう。併し古代宮廷の慣例によれば、夫人・媛は、三韓の貴族の女性の官或は族姓を示す称呼である。「狛夫人某と、新羅百済の媛善妙・妙光其他を度《ド》した」(崇峻三年紀)とあるのは、新しく彼地から来た人々で、菩提寺で得度せしめたものゝことを言ふのである。新羅媛・百済媛はその族姓を示し、善妙・妙光は名を言ふものと見られる。雄略二年紀には、媛を後にしてゐる。此はやはり同様に見るべきもので、百済媛池津とあるに等しく考へてよい。中臣氏の金《カネ》・鎌足等に、連姓のつく様子は、日本紀記録――或は日本紀資料記述時代に、既に姓の下に廻る風の現れてゐたことを示すものであらうが、一方又、姓が敬称としての感覚を表す様になつて来たことを見せてゐるらしいのである。他の家々の宿禰・臣・連などの位置が、同じ時代に上にも下にも置かれるが、概して下になる傾向が出てゐる所に、新古の感覚の相違が出てゐる。後になるほど、真人や朝臣が姓と言ふより敬称として用ゐられた。某位以上を朝臣と敬称すると言ふやうな風は、かう言ふ傾向から誘はれてゐるのであらう。
元来、敬称を示すことを目的とするものではなかつた姓が、氏名から放されて、人名の下につくやうになる。此は単なる語序変化に過ぎない。ところがさうなると、人名に対して、姓が個的な関係を深めて感じさせる。
かうして、姓と氏と名との位置の動いて行くのは、社会感覚の変化によるやうに見えるが、根柢の理由は、語序変化にある。さうした語序と敬語感覚との交錯交替する様子が思はれるのである。
傍丘の如きは、半固有名詞と言ふ事も出来るもので、日常常用物の表現例として、下簾・韈・梯立のやうに残つたものと、一様に見てよからう。
旧語序によつて、表現せられてゐた時代――或はさう言ふことが、旧語序を持つ言語族に偏して甚一方的な言ひ方であるかも知れぬ。――は、相当に古い過去で、我々が想像する古代とは、状態が違ふやうである。さうした語序の語が、普通に使はれてゐた状態は、古代文献によつて印象せられてゐるばかりで、我々の想像を超越したものと思はねばならぬ。その後の文献には窺はれないほど、連絡のきれたと思はれる姿があるや
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