きてゐる神の精髄、神主は主神《シユジン》といふことになる。神主をさすことの多くて、之を神髄なる神といふ風に解してもよい訣だ。即、祭られるべき神髄になるものを持つてゐるものを意味する語である。たとへば実身(サネミ)といふ風に逆に言つても、身の心《シン》と言ふのと同じである。神主も又神人の主体又は神々の主《ヌシ》といふことになつてゐるから並べて考へてよい訣だ。漠たる表象に、偏向あらせられる所から、意義も固定するので、中には浮動したまゝと謂ふやうなものがある。表象を追求する心が、半ば以上言語発想当初の意想よりも発育したものにする。
心《シン》になるものを考へる。其が、神自体であつても、神以外のものであつても、さうした点に、深い顧慮のない所から出発して、その語の宿命的な意義が定まる。だから、「神ざね」は神であるか、神主であるか、どちらにも考へ得る所があり、神道が儀礼化すると共に、人神信仰が強くなると、神実即神主の方に重くなる。而も、正確にはやはり動揺してゐるといふ外はない。
身のさね[#「身のさね」に傍線]と言つても、実《サネ》なる身と言つても、固定以前にはどちらでも理会出来る筈であつた。其が語形がきまると、却つて一方の外は訣らなくなつてしまつたものであらう。むざね[#「むざね」に傍線]でなくてはならないことになつたらしい。むざね[#「むざね」に傍線]と言ふ古語が、現存の文献には見られなくなる頃、――或は、唯多く行はれなくなつたゞけで、地方的にはあつたかも知れぬが、之に代り、又それから幾分意義が踏み出したと見える語に、さうじみ[#「さうじみ」に傍線]がある。正身(シヤウジン)といふ漢語を国語化してしやうじみ[#「しやうじみ」に傍線]と言つたのである。其が音韻変化してさうじみ[#「さうじみ」に傍線]と言はれるやうになつて、如何にも国語らしい情調を持つて来た。当然むざね[#「むざね」に傍線]と交替するのに適当な機会があつて、漸くふり替つたものと見てよい。国語化しようとする努力の著しく現れた語である。正身は意義から言へばむざね[#「むざね」に傍線]であり、語を解体すれば、さねみ[#「さねみ」に傍線]である。必しも、さうして分解的に語は造られてはゐないのだが、語の成立に、さう言ふ意識を含んでゐるのは事実だ。精神から見れば、ある時期が、語序をとり替へさせる力になつてゐると言へる。語序
前へ 次へ
全31ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング