れ、御殿のうしろ戸へ参つて平伏すると、引きはづして御殿の前戸にお出になる。山背川の川原にあつた御殿のことゝて、水層が増して来た。匍《ハラバ》ひながらお庭に平伏してゐる時、水は段々川を氾えて其腰のあたりにとゞいた。口子の臣は、その時、青摺衣《アヲズリゴロモ》を著て、紅の上紐《ウハヒモ》をひらつかせて居た。紅の紐に水が達《ツ》いて、色がおりる。青摺りが、すつかり真赤になつた。口子臣の妹の口比売《クチヒメ》、皇后のお供として、この宮に居た。其で、口比売のうたうた歌、
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山背の綴喜の宮に もの請《マヲ》す。わが兄《セ》の君は、涙含《ナミダグ》ましも――紀、わが兄を見れば――
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皇后が、さう言ふ歌を作つたわけをお問ひなされた時に、私の兄、口子臣でございますと申しあげた。――古事記
さて、口子臣、其からその女兄弟、其に宿主ぬりのみ[#「ぬりのみ」に傍線]、三人によつて考へを出し、天子に奏しあげさせた口状《コウジヤウ》は、皇后のいらつしやつた訣は、ぬりのみ[#「ぬりのみ」に傍線]の飼うてゐる虫の中に、ある時は這ひ虫になり、ある時は卵になり、ある時は鳥になり、三とほりに変る不思議な虫が居ります。この虫を御覧になつて入らつしやつたのです。よくない心は全然おありになりません。かう申しあげたら、天子様が、さうか、そんならおれも不思議と思ふから、見に出かけよう、とおつしやつて、宮廷から淀川を溯つてお出でになつた。ぬりのみ[#「ぬりのみ」に傍線]の家にお著きになつた際、其ぬりのみ[#「ぬりのみ」に傍線]自分の飼つてる三通りの虫を、皇后にさしあげた。さて、天子は、皇后のいらつしやる御殿の方にお立ちなされて、おうたひなされたのは、
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つぎねふ山背女《ヤマシロメ》の 小鍬持ちうちし大根。
爽快《サワサワ》に汝《ナ》が言《イ》へせこそ、うちわたすやがはえなす[#「やがはえなす」に傍点]、来入《キイ》り参来《マヰク》れ
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この天子と、皇后とのお歌ひなされた六つの歌は、志都歌の返歌――又、歌返しである。
この外にも、まう一首、おなじ仁徳記に、志都歌の返歌が伝つてゐる。
古事記の順序で見ると、此で、皇后の御心が鎮ることになつてゐるらしいのである。其後に、皇后宮廷の饗宴に参上した氏々の女たちに、柏をとつて、御酒を賜ふ
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