ばぬ所とのある理由である。何よりも第一に、古代の詞章が近代の人の解釈に堪へることについての素朴な疑念が物を言ふ。現存の形の固定するまでに幾度も/\改竄せられて来たものであると言ふ外に、此問題は解くことは出来ない。最古い物は、殆永遠とも言ふべき永い時間に徐々に変化して、或は原形を残して居ぬ程になつたことであらう。今日あるものゝ古いものも、さうした改作の上に現れた、古典色彩の濃厚なものと見るべきであらう。さうしてわりあひに意義の概観に不便な化石層とも謂ふべき古詞章の固定したものを残すことの少い理由は、一往全体に変化が行き渉つたといふことの外に、全体に行き亘つての整理が、行はれたことが考へられるのである。神の許《ユル》しが、必ある方法によつて、予期出来たのであらう。さうでなくば、たとへば、右の両寿詞にしても、あの程度の快い詞章感を保つことは出来なかつたであらう。
右の古詞章の中、出雲国造の分は、延喜式に記録せられてゐるから、その完全な固定は少くとも、平安朝の初期位まで溯つて見るのを適当だと考へる。が、中臣の方は、平安朝末に記録せられた形であつた。藤原頼長の台記別記に、記入せられた大中臣清親の記録である、近衛天皇即位の康治元年当時の形である。尠くとも、康治に改作せられた部分も、考へることが出来る。
[#ここから2字下げ]
「……堅磐常磐《カキハトキハ》に斎《イハ》ひまつりて、いかし御世に栄えしめまつり、康治元年[#「康治元年」に二重傍線]より始めて、天地日月と共に、照し明《アカ》らしましまさむことに、本末《モトスヱ》傾かず、いかしほこの中《ナカ》執《ト》り持ちて、仕へ奉る中臣|祭主《イハヒヌシ》正四位上神祇大副大中臣清親[#「正四位上神祇大副大中臣清親」に二重傍線]寿《ヨ》詞をたゝへ、こと定めまつらくと申す。」
[#ここで字下げ終わり]
傍線の部分は、大嘗祭毎に、年号・祭主の氏名を入れ替へて唱へたに違ひないのである。
出雲の方にしても、
[#ここから2字下げ]
「八十日々《ヤソカビ》はあれども、今日の生日《イクヒ》の足日《タルヒ》に、出雲[#(ノ)]国[#(ノ)]国造《クニノミヤツコ》姓名[#「姓名」に二重傍線]恐み恐みも申したまはく……手長《タナガ》の大御世を斎《イハ》ふとして……」
[#ここで字下げ終わり]
「姓名」とある部分は、其時の国造の姓名出雲臣ヽヽといふ名詞が入
前へ 次へ
全32ページ中18ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング