祝詞を奏することになつて居たのだが、祭日にも、其社の神官至らず、宮廷においてたゞ、その旧儀が行はれ、神主祝部を呼ぶ形式の語があつたに過ぎぬのである。
宮廷近侍の皇親・京官を以て行ふ神事は、即|司召《ツカサメシ》の朝儀と意義が通じて居り、地方の神職を召集する儀式は、県召《アガタメシ》と同じ精神を持つてゐた。京官《ツカサ》を召し、地方官《アガタヅカサ》を召すのは、宮廷の政を京地方に施さうとする神事から出発したのである。其が一方には、京官・地方官叙任の儀式としてのみ固定する様になつた。此宣下式の祝詞は、列座の人々に、其任を奉仕することを命じてゐられるのである。奏上式のものは、主上直接に仰せられる詞と見るべきではなく、凡中臣斎部の神主の要望と感情とを述べる様な形で、中介者として、とりなしの姿の表現様式をとつてゐるものである。神々の位置の高まつて後の形であることは勿論だが、宣下・奏上両式の祝詞、共に、主上御自身としての発想ではない。のりと[#「のりと」に傍点]と言はれた詞章の性格が一変したことが思はれる。のりと[#「のりと」に傍点]の変形が、平安祝詞であることは論のない所だが、其分化理由は自ら察せられる。下級の神――寧、精霊の類――に向いて発する呪《マジナ》ひ式な精神が、のりと[#「のりと」に傍点]の形の上に表現せられるやうになつた為であるらしい。だから、詞章の歴史から言へば、宣命式のものが、のりと[#「のりと」に傍点]の正系であり、のりと[#「のりと」に傍点]は直に、宣命に聯接してゐる訣である。
奏上式の祝詞の発想法は、平安祝詞の中に見えてゐる鎮護詞《イハヒゴト》と言はれる詞章の系統である。霊魂を鎮定する呪術をいはひ[#「いはひ」に傍点]と言ひ、其詞章を「いはひごと」と言ふ。其だけに、所謂|媚仕《コビヅカヘ》の姿をとつて居る。
宣下式と謂はれる宣命系統の祝詞も、内容を見ると、奏上式の祝詞と変つた所のないものゝ多くなつてゐるのが、平安朝祝詞の通念である。恐らく、古式ののりと[#「のりと」に傍点]から見れば、非常に変化して来たものであらう。唯古式なものは、宣命によつて想像出来るだけで、――寧、宣命を以て古式のりとと考へて置く外のないまで、痕もなくなつたのである。
いはひ詞は、霊魂の逸出を防いで安定させる詞である。結局は、まじなひの詞章である。神秘な技術を以て、霊魂を鎮定するので
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