である。さうして其霊魂は、肉体を発育させる――さう言ふ風な信仰が、更に鎮魂《タマフリ》の技術を発達させることになつたのである。だから、産霊《ムスビ》は信仰で、鎮魂は呪術といふことになる。
高皇産霊・神皇産霊二神の中、多くの場合、高皇産霊尊を代表と見なしたことであつた。又当然、二尊の間に、職掌の分担を考へてゐたことも思はれる。ともかくも、産霊ノ神の職掌の重大な部分として挙げてよいものが、一つある。
尊い神が、神の詞を宣《ノ》る時に、其を自ら発言することの出来る資格を授ける為に、此神の出現したと考へたのが、古代の考へ方である。天照大神に添うて、此神の出現する時は、重要な神事が行はれる訣である。
天照大神の神格については、いろ/\の考へもあるが、此神に、人間的な要素を深く考へてゐたことは忘れてはならぬ。最大の神言を発せられる場合に、きまつて居ると言へる。其人格をして、十分に神の能力を伸べさせるには、どうしても威霊を、その身に結合させる外はない。この大神をして、完全円満にして、永遠に効験ある神言を発せさせ申す為には、さうした大威力ある霊魂を、神の体中に置かねばならないとしたのである。其威霊は別に存在するものとして、その霊魂を処置するものなる、高皇産霊尊は、どうしても考へねばならなかつた訣である。かうして、最高の威力を具へられた天照大神の発せられた神言は、瓊々杵尊之を、下界に伝達せられたもの、と信じて来た。此地上に於いて、聖なる御子の神言を発せられる際は、其が伝達の意味であることは勿論だが、やはり、さうした呪術者が、身辺に居て、威霊を結合させる。さうすると、天上の神に現れた様に、威力ある詞が聖なる御子によつて発せられるやうになる、と考へたのである。此呪術を行ふ者が、天児屋命或は太玉命と謂はれる神々である。つまりは、週期的に神言を発する時が、廻つて来るのが常であつたからである。一度限りなら、さうして呪術者が、天上から随伴する必要はなかつたのであつた。
神語を発する能力ある神となることを考へたのが、次には、神語を発する能力自らが来り寓るものと思ふ時が来た。神語を発する神でなく、神語の威霊を考へたのである。此信仰が展開して、言霊《コトダマ》信仰が現れて来ることになる。
天照大神に高皇産霊尊が随うた如く、亦瓊々杵尊に天児屋命が随うた如く、尊い神事を行ふ者には、威霊を操置する呪術者が随
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