詞の緊要なる部分で、精霊又は、所動の人間の側の表白として、生じた為の「くどきごと[#「くどきごと」に傍点]」であることが訣ればよい。かうして叙事は、抒情を孕み、平面な呪詞から出た叙事が、立体的な感情表出を展開して来たのだ。
其と共に、諺について見たい。実は、歌も諺も同様なものと言へるが、成立の事情において、少々の区分がある。従つて、形式においても、歌とは違ふところがある。内容は勿論、その方角を異にしてゐる。諺は、社会的事象の歴史的説明であり、又其説明を要するものであり、或は、積極消極の両様における奨励であり、或は訓諭・禁止である。多く宗教的の基因を思はせる契約を含んでゐる。もつと適切に言へば、神の語なるが故の、失ふ事の出来ない伝承である。断片的な緊張した言語である。
諺の発生こそは、叙事詩以前から、叙事詩になつても、尚行はれてゐたと見えるもので、歌の発生する原因になつた、一つ前の形なのである。寿詞の元なる宣詞が、命令的表現である所から、さうした傾向を持つてゐるのだ。訣り易く言へば、宣詞の緊要部なる神の「真言」の脱落したものなのだ。歌よりも、とりわけ古く、断篇であり、原詞章不明のものが多かつたらしい。此が「枕詞」「序歌」なり、或は神聖なる「神・人の称号」なりに固定する外に、この諺の起原と称する第二次の物語を発生させたりした。さうして、この語を周る短篇は、笑話の前型とさへなつてゐる。
宣詞が、対照的に寿詞を派生し、寿詞が叙事詩を分化し、叙事詩と相影響することによつて、宣詞から諺が、叙事詩自身からは、歌の発生して来た径路は、此で説けたことにして貰ふ。

      叙事詩

叙事詩の成立が、邑落或は国家生活の間に、次第に新しく歴史観を生じて来る。村にとつては、叙事詩の存在が、大切な条件となつて来なければならない。其なら、叙事詩の初頭の部分は、すべて村の開闢と考へられる時から伝つたもの、と信じられてゐたかと言ふと、さうばかりでもない。信仰の上では、其考への基礎に立つて居たのである。やはり、後代村の巫覡の感得によつて唱へ伝へられたものゝ、却て多いことは察せられるのだ。だが同時に、考へなければならないのは、新しい部落の建設と共に出来て来る、第二次的の叙事詩である。
村の成立の基礎には、旧村の分岐する事実と、統制ある職業団体――古代の職業は、すべて神の為のものとして、聖なる職団を形づくつた――の群居とに就いて見ねばならない。此二つは、後来久しく新しい、部落を構成する理由になつて居たのである。
事実について言ふと、国家が固まつて後、複姓――小氏――の家が分立して、近所遠方に処を占めるやうになつた事の前型として、部落から岐れて、更に小邑を作る事が行はれて居るのだ。譬へば、物部氏の中に、岐れ居た土地によつて、幾流の複姓を生じ、其が後ほど族長更迭して、氏神に仕へる様になつた例と、同じ事が、他――他氏――の邑落にも多い。さうして、此等の村が、皆其々分岐の歴史よりも、寧《むしろ》互に本氏となり得る様な自由な伝承を伝へた叙事詩を、持つて居たらしいのである。中臣の一部、藤原に居たものが、藤原を氏名として、複姓としての特定の神、其氏神・郷土々着の神等を祀つた様に、又、旧族大春日氏の氏族の中心たる氏上が、時々に交替して、その都度、其族長の祀る神を拝する例だつたらしいのを見ても、村及び氏族に隆替があり、中心が常に動いてゐたことが思はれる。必しも、大氏は永久に、小氏を総べて居たとのみは言へぬのだ。此事は、小村分立の時の事情から思ひ見ることが出来る。
村の成立について、尚考へて見ねばならぬ古い事情は、職団の移動・定住の状態である。職の神聖なる長者は、宮廷式に言へば、伴造《トモノミヤツコ》であつたらしいが、其宮廷直属の、由来久しいものと信ぜられたのは、特に伴緒と称してゐたらしい。伴造の所管にある民は、伴部であるが、其団体が常に漂遊して、諸国に散在して居るのと、各処に定居して居たものとがあつた。小氏が村を作るのは、普通形式である。職団部民の方は、其に対して、さすらひ歩くのが、古い形らしく、其伴造になるものが、京に住む様になつて行つたものと思はれる。併し、其とてもわりあひ、後代に纏つた二つの様式かも知れない。まづ此様式から言へば、後世の新撰姓氏録の記載例なども、其固定した俤を伝へるものと見てよい。だから、事情によつては、可なり早く、諸処に定住した例もある。其は、後に言ふ。
これを、宮廷の上の習儀にうつして見ても、同様の事があつた。即、後世、荘園の出て来る元の形は、こゝにあつたのである。御名代部《ミナシロベ》・御子代部《ミコシロベ》など称するものは、宮廷において、新村落を分立した場合の称号であつた。而も詳しく言へば、必しも土地に固定した民団ばかりでなく、流離する職団を意味することもあつたのだ。だが、社会的地位がすべて土地を基礎とする時代になつては、段々其が、村の形に傾いて行つたのは、事実である。御名代・御子代、名義に区別はあるが、内容は、古書にも多く、混用せられて居る。
実は、宮廷においての、さうした村落成立の原因と考へられるものは、稍《やや》違つた形を持つてゐた。代々の主上は、宮廷信仰の上では、常に一人格に入れられるものとして考へ申して居た。にも拘らず、歴史的な考へ方が生じると、御一代々々々を、別々に考へ申す様になつて来るのだ。だから、ある御代のなごりを留める記念事業と謂つた目的を、其御方に関係深い部民の上に考へる様になつて行つた。即、列聖直属の部民で、宮廷の信仰を宣伝する用をなしてゐた宮廷暦即、日置《ヒオキ》の搬布者――大舎人として、御代々々の天子に近侍した人々が、任果てゝ後、郷国に還つてその役をしてゐたのである。即《すなはち》歴代の主上に、日置部或は日置大舎人部又略して大舎人部として、仕へた人である。場合によつては、其大舎人部が、ある代の主上を記念するに適当な特殊な名号を称することもあつた。極めて自然に、御代々々の主上の御なごりを止めることになつたのだ。日置といふのは日をかぞへる事を意味してゐる。

      新叙事詩

さうした宮廷の村々が、単に独立して散在してゐたのではなく、大舎人の後が、その部の伴造に当る宰《ミコトモチ》として、ある方々の支配を受けてゐたのであらう。即、日置部・々々々を総管するのが、其部の創立者であらせられる御方の御子孫、といふ事になつたのだ。其処に、宮廷領の分立並びに、平安朝における先帝《センダイ》観・後院《ゴヰン》制度の生れて来る理由があるのである。歴代主上直属の民、及び土地の継承には、今日では不明な、ある形式があつたのであらう。即、次代に伝る事もあれば、又次々代に伝り、或は宮廷外に出て行く形もあつたらしい。
宮廷における部民継承の形が、分化せずには居なかつた。皇子及び皇后の為の部民である。正式に言へば、皇子の為のものは、別部《ワケベ》と言ふべきであつたらう。皇子尊が、宮廷の聖なる侯補としての位に備られた為に、日置部同様、別《ワケ》の部民が出来たのだ。後に専ら、御子代部と言ひ、又、御名代部の内に籠めても言はれる様になつたのが、此である。
必しも、早世せられ、其伝ふべき子孫のない時、この皇子在世の記念として立てたものとは言へない。子孫あり乍ら、御子代部のあつた例が多くもあり、又在世中から定められても居たことも、古い形らしいのである。だから、死後立てた様に説くのは、後の合理化と見てよからう。而も全然、新しく作るものと言ふよりは、従来の部民の名称を改めさせて、新部民・新部落を形づくる様になつたと見られよう。
御子代部の所管が、其皇子の名義を伝へる方々の伝統から去つて、新しい方面に行くことがある。つまり、宮廷において、宮廷領の分化したものと言ふべきものゝ主が失はれた場合は、之を襲ぐ新しい部曲を立てることが出来たのだ。引いては、宮廷では、其直属でないものでも、旧部曲伝来の詞章不明になつたものは、之を没収して、新所有者を、皇子の中から択ぶことも出来たのである。山部の財産に対して、大山守皇子の併有を宣した如きは、其例である。此時は、伝承の詞章によつて、危く没収を免れてゐる。
子代の為に新立した継承者は、即養子に当るのである。別部の発達に連れて起つたものが、私部である。宮廷を大家《オホヤケ》――公――と言ふに対して、後宮[#「後宮」に傍線]の主の上に、後代非公式に生じたものとして、私部の字を、后の部民・領土の上に宛てた。きさいつべ――きさいちべ>きさいべ――と言ふ。これを多く、御名代部と言ふ。混同して皇子の御子代までをもこめて言ふ様になる。此私部又は、御名代部の起原を説いた大春日皇后伝説があるが、事実は其前からあつたものとも思はれる。これにも、御腹に、御名を伝へるべき皇子のないのを歎かれた為に、主上私部を立てることを免《ゆる》された事になつてゐる。とにかく、私有部曲の起原を説いたものに違ひない。但、此と同じ境涯にあつた内親王には、更に古い伝へがあつたのである。其と共に、此大春日部以下の起原説明が、荘園の古形態を示して居ることは、明らかである。この部曲を立てる風が、延長せられて、臣下の上に及んだのは、日本的には、主として宮廷との血縁関係の、深まつて来た為であらう。
かう言ふ風に、次第に財産観念を出して来るが、其根本をなすものは、やはり詞章であつた。先に述べた大山守皇子の、山部の土地人民を押領することが出来なかつた唯一の理由は、山部・山守の別を知らしめた山部の詞章の存在した事による。村又は部民の成立を説く所の口頭の物語が、其部民|或《あるいは》、神人の間に伝つて、その土地・その職業の来由と、宮廷との関係その他を伝へてゐたからである。だから、村の新立・部民の結集の為には、叙事詩を与へる必要があつたのだ。もつと自然に言へば、村――及び部曲――は、物語の継承を必須条件として居た。村の開き主に関する物語なくては、村の存在は意味なく、存立危険なものでもあつたのだ。
大春日部その他の伝へと思はれる、安閑天皇・春日皇后の妻訪ひの物語歌の如きは、大国主・沼河媛の唱和と根本において異なる所がない。又反正天皇の御誕生に関する物語の如きも、同じ形式をたぐれば、三つの似た事蹟が、後代の皇子の上にも見られる。
叙事詩の史実化について、その糸口は書いた。事実において、真の歴史を後世に伝へる成心を持つてしたのが、語部の出発点でもなく、又その内容自身が、実在性の保障出来る唯一偶発事件の表現せられたものでもないのが、普通であつた。

      部落・部曲の詞章

尊い皇子の為には、その誕生から生ひ立ちの過程のある期間の叙述を類型的に物語るものが、中心になつてゐたのだ。言ひ換へれば、すべての尊貴の方々の出生に関する儀礼==産養―鎮魂―祓除―養育―母・小母・乳母に関聯した事==にくり返された類型の行事が、ある方々の歴史と特殊化して考へられたのだ。別の語を以てすれば、家筋・村筋・職筋においては、其開初の人の一代記から語りはじめる事を、条件としてゐる。さうすれば、出生譚に重きを置くのは、理由のある事である。其から、時代の進むにつれて、次第に一代の中の重要事項を併せ陳べることになつたと思はれる。が、ほんたうの史実をとり扱ふ様になるのは、極めて後の事と考へるのが正しい。
譬へば、建部《タケルベ》の伝承には、却て成人後の伝に重きをおいて、生ひ立ちについては、父帝の、碓《ウス》にたけび[#「たけび」に傍線]せられた事を言ふのみである。此などは、聖子誕生に関する別殊の形式の存在を思はせるものでなくば、恐らく後の大事件を主として、生ひ立ちの語りを忘却したものと見てよいのだ。唯時として、稀に誕生の部分の細叙せられた方々の物語が、残ることがある。その為、小数の尊貴の上の事実だと見られるのは、実はすべてに亘つてあつた事、語られた事が、特別に、ある部曲に限つて残つた為の様に思はれる。
かの反正天皇の産湯に関する伝への類型は、既に一部分固定化を経たものであつた。大国主の子あぢすきたかひこねの[#「あぢす
前へ 次へ
全4ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング