日本文学の発生
折口信夫

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)屡※[#二の字点、1−2−22]《しばしば》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)此|土《くに》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#二の字点、1−2−22]

 [#…]:返り点
 (例)当麻《タギマ》[#(ノ)]蹶速《クヱハヤ》

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)重ね/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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私は、日本文学の発生について、既に屡※[#二の字点、1−2−22]《しばしば》書いて居る。その都度、幾分違つた方面から、筆をおろしてゐるのだが、どうも、千篇一律になつて居さうなひけ目を感じる。此稿においては、もつと方面を変へて、邑落の形と、その経済の基礎になつて行くものが、文学の上に、幾分でも姿を見せてゐようと言ふ様な方面に、多少目を向けて行きたく考へる。
日本における文学発生――必しも、我が国に限らぬことだが――は尠くとも、文学意識の発生よりは、先《さきだ》つてゐる事は、事実だ。つまり、文学の要求が、文学を導いたのでなく、後来文学としてとり扱はれてよいものが、早くから用意せられてゐて、次第に目的と形態とを変化させつゝも、新しい文学意識を発生させる方に、進んで来てゐたのだ。其と共に、新しい文学が、他から来り臨んだ時の為に、実際その要求に叶ふものとしての文学が、既に用意せられて居たことになるのである。
私は、此文学の発足点を、邑落々々に伝承せられた呪詞に在る、と見て来てゐる。

      日本文学の発生

最古い団体生活の様式であつた邑落が、海岸に開けて、其が次第に、山野の間に進み入つて行つたことは、事実である。さうした後の邑落或は国・村においても、やはり以前の時代の生活の形が、其相応に適当な様に、合理化せられて行つたことは、明らかであつた。第一、海及び海の彼方《アナタ》の国土に対する信仰は、すべて、はる/″\と続く青空、及びその天に接する山《ヤマ》の際《マ》の嶺に飜《ウツ》して考へられて行く様になつた。随つて、此二つの邑落生活の印象が、混淆せられて、後世まで伝つて来たことは、考へられるのだ。
日本文学の、文学らしい匂ひを持つて来るのは、叙事詩が出来てからの事である。其叙事詩は、初めから、単独には現れて来なかつた。邑落に伝つた呪詞の、変化して来たものだつたのである。而もその呪詞は、此|土《くに》に生れ出たものとは、古代においては、考へられては居なかつた。即、古代人の所謂|海阪《ウナザカ》の、彼方にあるとした常世《トコヨ》の国から齎されたもの、と考へたのである。一年或は数年の間に、週期的に時を定めて来る異人――神――の唱へた詞章なのである。其が、此世界――邑落の在る処に伝へ残されたと考へ、その伝襲をくり返してゐる中に、形式も固定に次いで、変化を重ね/\して、遂には、叙事詩らしい形に、傾く様になつたのである。
私はこの呪詞の中に、二つの区画を考へてゐる。一つは、呪詞の固有の形を守るもので、仮りに分ければ、「宣詞」即、第一義における「のりと[#「のりと」に傍点]」である。神又は長上から宣《ノ》り下す詞章である。その詞を受ける者の側に、これに和する詞章が出来るのは、自然な事である。謂はゞ「奏詞」、古語に存する称へを用ゐれば、「よごと[#「よごと」に傍点]」である。而も、文献時代に入つては、早くよごと[#「よごと」に傍線]と言ふ語の用語例が訣らなくなつて了ひ、後世学者は、祝詞の古いものと思ふ様にさへなつて居る。其といふのも、のりと[#「のりと」に傍線]なる名称の範囲が拡がつて、古くは、よごと[#「よごと」に傍線]の領分にあつたものまでも、のりと[#「のりと」に傍線]――祝詞――なる用語例に入れて言ひ表す様になつた為だ。
邑落にとつて、最古く尊重すべき詞章――其を唱へる者自身、同時に神であると信ぜられた所の――が、此様に分化して、のりと[#「のりと」に傍線]とよごと[#「よごと」に傍線]の二つとなつた。さうして、国家意識が進むと共に、宮廷に誓ひ奉らねばならぬ資格の国、及び人が殖えて来る。其詞章の根柢をなすものは、即、主神に対して、精霊の奏した詞章の形式を襲用する形をとつて居るのである。さうして其が又、次第々々に無限とも言へるばかりに増加して行つたのだ。此に対して、のりと[#「のりと」に傍線]を唱へる人格は、主神の資格においてし給ふ、宮廷の主上が当られる事になつて居たのだ。
正確に言へば、宮廷において宣下せられ、或は侍臣の口によつて、諸方に伝達――みこともつ[#「みこともつ」に傍点]こと――せられる詞章が、のりと[#「のりと」に傍線]であつた。宮廷の式日の恒例として、宣下があると折り返し、臣下から、精霊が主神に対する立ち場に倣うて、奏上誓約したものが、よごと[#「よごと」に傍線]なのである。だから、自ら内容に制限のあつた訣である。第一条件として、服従を誓ふ儀礼の精神は、其族の威力の源たる国々――種族的――の守護霊を、聖躬に移し献じ奉ることによつて、成り立つものと考へて居た。その呪術によつて、宮廷の主上の御為に生ずる効果は、其国々を知る威力を得させ奉ると共に、其守護によつて、健康と富みを併有させ申すことになるのだ。其で、文献には、寿詞《ヨゴト》――奏寿詞の義――を以て、宛て字としたのだ。
宮廷の正儀として、正月朝賀の時に、宣詞宣下があるのに、和し奉ることに定つて居た為、「賀詞」或は「賀正事」なる字を作り、又漠然と「吉事」など書いて、「よごと」と訓じる様になつたのである。
古い形で言へば、神から精霊に与へ、精霊をして服従を誓はしめた唱和の辞が、宮廷と臣下――豪族――との間に、後代までも、儀礼の姿として続くに到つたのである。此二つの関係が、次第に忘れられ、祝詞《ノリト》が全体を掩ふ用語となり、よごと[#「よごと」に傍線]は、其一部分のものとなつて了つたのだ。此も、対照的に見ると訣る。のりと[#「のりと」に傍線]であるべき宣命が、人間――又は人間であつたもので、尚生きて居ると信ぜられるもの――に対して宣せられる、宮廷の臨時詞章に限られたのと同じ筋道にある。宮廷に対して、人間としての立ち場から奏上するもので、それ/″\の家の、宮廷に対する歴史的関係を説く、家伝の詞章であつた。
寿詞が、国々・家々・氏々によつて、複雑に分化して行つたと同時に、宣詞は、次第に単純化して行つた。数においては、寿詞的なものをもこめて、次第に増加して行つたにしても、形式も短くなつて行つた。だから一方、祝詞は、名はのりと[#「のりと」に傍線]でも、実は形式内容共に、寿詞的になつた訣だ。
叙事詩は、さうした意味ののりと[#「のりと」に傍線]正しくは、よごと[#「よごと」に傍線]から、次第に目的を開いて行つたものである。だから、叙事詩自身も、後々までも、呪詞的の効果を失はずに居た。言ひ換へれば、叙事詩でありながら、呪詞として用ゐられてゐた理由も訣るのだ。

      語部

古く見れば、宣詞その物が、主神自身の「出自|明《アカ》し」であり、対象たる精霊の種姓を暴露すると謂つた、内容を持つてゐたものなのだ。其形が、次第に寿詞の方へ移つて、宮廷に奉仕する家職の歴史的関係を、奏寿者から説くこと、益《ますます》明細なるに到つたのだ。此が、伝承詞章における、歴史的内容の出発点である。この寿詞の集注せられる所は宮廷だから、宮廷の歴史は、実は、氏々・国々の寿詞の綜合であつた、と言ふことが出来る。或は、国の古代史に、政治的変形の存在を、主張する人がある。古代史が多く、為政者の作為枉曲を含んでゐるとするのである。其を認める人々も尠くはない。けれども事実は、あまり考へな過ぎたもの、と言はねばならない。宮廷自体の歴史的伝承の固有せられたことは、勿論信じられるが、多く常に、旧来附属した他国・他氏の伝承自身に述べる所を纏めて、形づくられて来たものと見るのが、本道なのだ。さすれば、諸国・諸氏に関する宮廷の歴史は、諸国・諸氏自身の、曾ては自ら信じ、自ら伝へて居たものだといふことになる。疑ふべきものがあれば、其出た本国・本氏の伝承の上にあるとせねばならぬ筈である。
さて、のりと[#「のりと」に傍線]――宣詞――は、後によごと[#「よごと」に傍線]要素をもこめて、祝詞《ノリト》と称し、又分れて宣命となつた。其如く、よごと[#「よごと」に傍線]は、物語《モノガタリ》――口立ての歴史――となり、又抒情詩を分出せしめる様になつて行く。寿詞《ヨゴト》を伝承したものは、国々家々を治《シ》つた者の後なる氏々の族長であつた。其由は、日本紀の飛鳥朝になると、明らかになつて来る。寿詞は、宮廷に奏する事を目的としたのだから、低い者の任ぜられぬ理由があつた訣である。処が、其歴史化した方面は、其目的が、国或は氏の神の祭儀に用ゐ、族人に周知せしめる事を目的としたところから、此を伝奏・代唱する、神聖なる職業を、生じることになつた。即、語部《カタリベ》の発生した所以である。
宮廷で言へば、「のりと」を代唱する神人――其資格の上から、神主といふ――を生じて、中臣・斎部の氏人の位置の定まつた様に、家々の歴史的生活の中に、語部職が分化して、国々の歴史詞章の伝承を掌り、氏神の自覚を促し、氏神の教養を高めようとしたものであつた。其が、更に分出した目的がある。其は、自国・自家に残つた、神秘な短章の威力を説く事である。即、「風俗歌」・「風俗諺」の起原を明す、語部の物語である。「くにぶり」の歌及び、諺をして、威力を発揮せしめるには、其来由を説く事が必要である。其と言ふのは、長い詞章以外に既に、それの詞章の中から脱落した断篇が、古くから行はれて居た。其れの起原が神に在り、帝王に在り、英雄にあり、又は神聖な事件にあることを説いて、其語を諷誦することの効果を、増させようとするのである。語部の為事には、この意味のものがあつた事は、寧《むしろ》却て明らかな証拠がある。即、ある言語伝承に就いて、其初まりを説き証《アカ》す、即《すなはち》歌或は諺の「本縁」――背景たる事実――と言ふ事と、二方面の為事をしたものが語部で、一つは、族長及びその子弟の教養に、一つは儀礼の為に、歴史を語つたことになるのである。

      抒情詩

本縁を負ひ持つた歌・諺は、元々ある詞章から游離したものであつた。其が果して、其説く所の本縁の如く、ある語部の物語の中に、元来挿入せられて居たものか、どうかと言ふことになると、蓋然的には、事実だと言ふことが出来る。さうした事の行はれる様になつたのは、古く叙事詞章の間に、部分的に衷情を訴へ、長上の理会を求める所謂くどき[#「くどき」に傍点]式な部分が、次第に発達して来てゐたからだ。早く分離しても唱へ、或は、関係ある「本《モト》」――本縁――の詞章を忘れたものが、多く行はれる様になつた為だ。かうして、游離した歌諺が、次第に殖えて行く一方だつた訣だ。然る後、これの「本」たるべき詞章を求める努力が、遂にかうした語部の職掌の中に、一分化を起す様になつたのだ。だから、語部の物語が、古代の歌諺を必しも正しく元の形に復し、適当な本章の中に納めたとばかりは、思はれないのが多かつた。却て間違へたものが多かつたゞらう。此は、記・紀その他を見ても、歌諺と、その成立の事情を説く物語とが、ちぐはぐ[#「ちぐはぐ」に傍線]で、緊密を欠いた場合の多いことを以ても、思はれよう。
語部の職掌はともあれ、歌及び諺に就いて考へる必要がある。歌は、其語原から見て、理会を求めて哀願し、委曲を尽して愁訴する意味を持つうたふ[#「うたふ」に傍線]と言ふ語の語根である。此にも、長い説明を加へる暇がない。唯、抒情的発想の根柢が、長上に服従を誓ふ所にあることを言ふに止める。つまり、寿詞の中から発達したものとして、歌は、寿
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