村の男が神であり、村の娘の巫女である儀礼上の資格も、後代は忘れられて、尚その風俗は続いてゐる。単なる祭りの式として、村の男女の呪詞贈答が行はれた。古くは恐らく、呪詞の応酬だつたのだらうが、歌が真言となる世に到つて、次第に歌の中にも、短歌の形が選ばれたのだ。尚古くは、片哥・旋頭歌を以てした時代が考へられる。地方的にも、其形式に、色々あつたであらうが、最新しい形式の――此については、別に述べる機会があるだらう――短歌が、有勢になつて来た。その為、世間に短歌が、歌の標準様式と謂つた姿を示して行つたものと言へよう。歌垣の事ばかりでなく、既にすべてを言ふべき余裕を失うた。私はこゝに、一口にかたづけねばすまなくなつたことを、許していたゞく。
叙事詩の中の抒情詩は、其が掛合ひの形に置かれても、尚独語の気分以上に出なかつた。即《すなはち》抒情的叙事詩なのだ。其が一転して、たとひやはり、叙事的情調を亡くせないまでも、抒情的になつた叙事的抒情詩として、対話的問答式の意義が深められて行つた。
其が片哥問答から、二つに岐れて、旋頭歌《セドウカ》式と短歌式とになつて行つたものと見られる。さうして、最後は、短歌の形に落ちついたと見られる。こゝに抒情詩としての内容の扱ひ方即、発想法における抒情技術も現れて来た訣である。
日本文学の発生は、仮りにこゝに、とぢめ[#「とぢめ」に傍線]を作ることが出来る。類型的であつても、稍個性的な事情と、環境とを条件とした表現法が、発明せられて来たのである。さうして、其時代は何時かと言ふに、我々が普通、日本有史時代と考へてゐる大倭宮廷の発祥時よりも、或はもつと古く考へて、世間では、既に純文学の現れた事を予期し勝ちな時代においてすら、尚徐々と、文学及び文学的なものに向つて行つて居た、と言はれるのである。つまり、其だけ地方々々によつて、事情が違ふのである。大倭宮廷の歴史を中心にして考へても、我々は、奈良朝以前を一括して、発生時代と見てもよいと思ふ。



底本:「折口信夫全集 4」中央公論社
   1995(平成7)年5月10日初版発行
初出:「日本文学講座 第一巻」改造社
   1933(昭和8)年10月
※底本の題名の下に書かれている「昭和八年十月、改造社「日本文学講座」第一巻」はファイル末の「初出」欄に移しました
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2009年8
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