して立てたものとは言へない。子孫あり乍ら、御子代部のあつた例が多くもあり、又在世中から定められても居たことも、古い形らしいのである。だから、死後立てた様に説くのは、後の合理化と見てよからう。而も全然、新しく作るものと言ふよりは、従来の部民の名称を改めさせて、新部民・新部落を形づくる様になつたと見られよう。
御子代部の所管が、其皇子の名義を伝へる方々の伝統から去つて、新しい方面に行くことがある。つまり、宮廷において、宮廷領の分化したものと言ふべきものゝ主が失はれた場合は、之を襲ぐ新しい部曲を立てることが出来たのだ。引いては、宮廷では、其直属でないものでも、旧部曲伝来の詞章不明になつたものは、之を没収して、新所有者を、皇子の中から択ぶことも出来たのである。山部の財産に対して、大山守皇子の併有を宣した如きは、其例である。此時は、伝承の詞章によつて、危く没収を免れてゐる。
子代の為に新立した継承者は、即養子に当るのである。別部の発達に連れて起つたものが、私部である。宮廷を大家《オホヤケ》――公――と言ふに対して、後宮[#「後宮」に傍線]の主の上に、後代非公式に生じたものとして、私部の字を、后の部民・領土の上に宛てた。きさいつべ――きさいちべ>きさいべ――と言ふ。これを多く、御名代部と言ふ。混同して皇子の御子代までをもこめて言ふ様になる。此私部又は、御名代部の起原を説いた大春日皇后伝説があるが、事実は其前からあつたものとも思はれる。これにも、御腹に、御名を伝へるべき皇子のないのを歎かれた為に、主上私部を立てることを免《ゆる》された事になつてゐる。とにかく、私有部曲の起原を説いたものに違ひない。但、此と同じ境涯にあつた内親王には、更に古い伝へがあつたのである。其と共に、此大春日部以下の起原説明が、荘園の古形態を示して居ることは、明らかである。この部曲を立てる風が、延長せられて、臣下の上に及んだのは、日本的には、主として宮廷との血縁関係の、深まつて来た為であらう。
かう言ふ風に、次第に財産観念を出して来るが、其根本をなすものは、やはり詞章であつた。先に述べた大山守皇子の、山部の土地人民を押領することが出来なかつた唯一の理由は、山部・山守の別を知らしめた山部の詞章の存在した事による。村又は部民の成立を説く所の口頭の物語が、其部民|或《あるいは》、神人の間に伝つて、その土地・その職業
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