須売呂伎能御代佐可延牟等 阿頭麻奈流 美知能久夜麻爾、金花佐久
  天平感宝元年五月十二日。於[#二]越中国守館[#「越中国守館」に傍点][#一]大伴宿禰家持作之。(万葉集、巻十八)

朝[#(波)]開[#レ]門夕[#(波)]閉[#レ]門[#(弖)]、参入罷出人名[#(乎)]問所知[#(志)]、咎過在[#ここから割り注]乎波[#ここで割り注終わり]……(御門祭。祝詞式)
[#ここで字下げ終わり]
ものゝふ[#「ものゝふ」に傍線]の用語例には、大和宮廷の溯れる限り古い時代から、近代までの所謂武家なるものを、完全に含んでゐると考へられてゐる。処が、ものゝふ[#「ものゝふ」に傍線]なる語がある時代に飛躍して、内容が変化をして了つてゐる事に、注意しないで居るのである。即、平安朝中期以後階級的に認められて来たものゝふ[#「ものゝふ」に傍線]は、実は語自身既に擬古的で、内容は変化して了つてゐる。其で、其以後の武家に関した知識を以てしては、最近い平安の宮廷武官の生活に対してすら、理会の出来ないところが多い。
虚心平気な、文献による研究は、平安朝の生活に思ひがけない古代が保存せられ、印象せられてゐる事に心付く筈である。家常茶飯として、特に伝へる必要を感じなかつた古代生活が、奈良朝以前の記録に漏れて来た理由は、考へ難くない。唯、其が、たま/\平安朝に引継がれて、固定して存してゐた部分の、特殊な取り扱ひを受けねばならぬ程、変つた様式と考へ出されるのだ。其が却つて、近代からは、其時代に始まつた為に、文献に見え出したと考へられてゐる様だ。だが、さうした考へこそ、すべての歴史観に立つ学問から、取り除けられねばならぬものだ。こゝには其一つとして、ものゝふ[#「ものゝふ」に傍線]並びにかんだちめ[#「かんだちめ」に傍線]について説かうと思ふ。
ものゝふ[#「ものゝふ」に傍線]は宮廷並びに公式の祭時に当つて、音楽・舞踊、即、古代の語で云へば、神遊びに属するものに深い関係を持つてゐる。原則として、宮廷武官・六衛府の官人其他が関係する訣である。而も、それらの中の指導者と言ふべきものを、ものゝふし[#「ものゝふし」に傍点]と称へてゐる。同時に此語が、曲節など云ふ意義をもつてゐなかつた事は明らかだ。必、ものゝふ[#「ものゝふ」に傍線]を根幹としてゐる語だと云ふ見当に、誤りがあるまい。王朝中期以後次第に京都
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