にも、耳を傾けなければいけません。花を我々の好みの対象として扱ふ場合、十分技術を人工的に加へてもよいと思ひますが、飽いたり嫌になるといつた飽満感を与へ過ぎるのはいけません。あまり飽満に過ぎ、崩れかゝつてゐるのは、ある点からはよいやうだが、やはりよくないことです。その花のよさといふことを、どこに標準をおいたらよいかは、我々素人の言ふ事ではありません。あなた方花に深い関心をお持ちになる方々の考へるべき事です。まづ考へられる事は、我々箱庭を拵へる、さういふ風に写真で写した通りに拵へるのが花の理想であらうかといふ事で、それは容易に否定は出来ないのですが、勿論、写真を作る事は芸術を作ることにはならないのです。さうすると、まう一つ我々の仲間ではかうした事を考へる。我々の眼に写つて来るものが全部這入つてくるのではなく、三つか、四つの眼につくものをもつて、それがとりまいてゐる全部を表すのだ。我々は花を活ける時そのつもりでゐたらよからう。花と交り合つてゐる自然を表す。言うて見れば、簡素に自然界を代表したものを作るのだと、まづ此頃の人なら考へるでせうね。花の表すものは自然界のとりまいてゐるものを表すので、種々な自然の組合せが出来てゐるのが本道の姿だといふ言ひ方が、此頃の花に対して持つてゐる考への落ち着くところだと思ひます。素人の我々の考へは間違つてゐるかも知れません。かう言ふ風に花の道の人の心を推察するのはわるいでせうか。
ところが、私はまう少しほかの事を考へて居ります。歌や俳句の上では、それと違ふ事があります。正岡子規といふ人があつて、俳句・短歌の上で大きな為事をしてゐますが、その子規が晩年になつて作つた句にかう言ふのがあります。

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藤の花 長うして雨降らんとす
鶏頭の 十四五本もありぬべし
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これには賛否両論がありましたが、どちらも本道は子規の心を掴んではゐなかつたのです。子規の眼の前で十四五本の鶏頭が秋の風景をつくつてゐるだけである。作つた肝腎の事だけを言つておけば――それを読む人が――その聯想を加へて其を中心に、その人自身の聯想の範囲において、延長なり、内容化して行き、藤の花だけ、鶏頭だけを詠んだのではないことを感じさせるといふ人が多いが、私は恐らくさうではないと思ひます。此句は、藤の花と鶏頭以外の何も言つてゐない、そこに句の面
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