別の歴史が出来たのか。其とも、和銅七年の修史事業に繰り返された日本紀撰定の第一回の試みか。或は、前に述べた日本書に就ての記事か、幾通りにも考へられるのである。まづ和銅の国史を、日本紀の第一期と見、天武紀のを「日本書」と見る方が、纏《まとま》りの上では鮮やかではあるが、事実は何とも決められない。何にしても、果して、日本書があつたものだらうか。
やはり、日本書なる名の書物の、あつた事だけは事実である。「正倉院文書続修後集」第十七巻中「更可請章疏等」と首書した天平二十年六月十日の文書(大日本古文書三・南京遺文)のさま/″\の仏書・漢籍を列記した末の方に、漢籍扱ひをして、
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帝紀二巻 日本書
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と記してゐる。此はともかく、「日本書」なる史書が当時存在してゐた事を見せてゐる。さすれば、日本紀の本書たる「日本書」の存在は、空想ではなかつた。たゞ此文書によつて、更に限りない疑念の、蜘蛛手に論理を走らせるを覚える。
三 日本紀の成立
私は実は以前、懐疑の立ち場から、為政者の政策として、日本書なしに日本紀を編纂して国際関係の上からある虚栄を満し
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