ものである。だから、さうした「日本書」の、なかつたものとは決められないが、日本紀以前にさうした大部の正史があつた事は、此までの歴史観の地盤の上には考へにくいのである。
けれども強ひて、其があつたらうと言ふ予定から、歴史を見れば、其らしいものがないではない。よく引用せられる天武紀十年三月の「天皇大極殿に御し、川島[#(ノ)]皇子以下十一名に以詔《ミコトモタ》しめて、帝紀及び上古の諸事を記定せしむ……」とあるのが、或は其「日本書」なるものゝ由来を書いたのともとれる。此記事は普通「書紀集解」以来、日本紀の準備作業であつた様に解してゐる。其とて、別に根拠のある事でもないのである。寧《むしろ》、日本紀の事は、古事記の出来た満二年後、和銅七年二月(続日本紀)に「従六位上紀[#(ノ)]朝臣清人・正八位下三宅[#(ノ)]臣藤麻呂に詔して国史を撰らしむ」とあるのに当てはまる。
天武朝の企てを不成功或は、永続事業となつたと見れば、此時が、日本書撰定の詔勅の降りた時と見る事が出来るが、此五年後に日本紀が出来てゐるのであるから、此を、日本紀着手の時と見る方が無理がない。天武十年の修史は、不成功であつたか、又は別の歴史が出来たのか。其とも、和銅七年の修史事業に繰り返された日本紀撰定の第一回の試みか。或は、前に述べた日本書に就ての記事か、幾通りにも考へられるのである。まづ和銅の国史を、日本紀の第一期と見、天武紀のを「日本書」と見る方が、纏《まとま》りの上では鮮やかではあるが、事実は何とも決められない。何にしても、果して、日本書があつたものだらうか。
やはり、日本書なる名の書物の、あつた事だけは事実である。「正倉院文書続修後集」第十七巻中「更可請章疏等」と首書した天平二十年六月十日の文書(大日本古文書三・南京遺文)のさま/″\の仏書・漢籍を列記した末の方に、漢籍扱ひをして、
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帝紀二巻 日本書
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と記してゐる。此はともかく、「日本書」なる史書が当時存在してゐた事を見せてゐる。さすれば、日本紀の本書たる「日本書」の存在は、空想ではなかつた。たゞ此文書によつて、更に限りない疑念の、蜘蛛手に論理を走らせるを覚える。

     三 日本紀の成立

私は実は以前、懐疑の立ち場から、為政者の政策として、日本書なしに日本紀を編纂して国際関係の上からある虚栄を満し
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