ても、ある点からは、先代文学にならはうとして居た。それは大伴家持等の古詞採訪に努めて居る様子、又家持自身創作に悩んで居る様などを見ても言へよう。詩形の生きて動いてゐる民謡側では、早くも又形式破壊の時を経て、再度|稍《やや》長目な自由詩になりはじめて居た。第一句は枕詞・地名・修飾辞の常場処になり勝ちで、形式的にも第二・第三句の繋りが固くなり、第一句は稍浮いた続き合ひになつて、音律を予覚しはじめてゐる。其方面に探りを入れかけた社会的傾向であつたと言ふ事も出来る。既に平安朝の「75」の基礎音脚は目ざめようとして居たことは実証出来るのだから、民謡は短歌の形から漸《やうや》く遠のいたと見てよい。そして流行に遅れた東国に於ては未だ盛んに民謡として短歌形式が行はれて居たのが、奈良盛時の状態であつたらう。其を記録したのが、万葉巻十四であるので、巻二十の東歌になると、ある部分の東びと[#「東びと」に傍線]には、創作を強ひられゝば、類型式ながら抒情表現の出来るやうな状態になつてゐたことを示して居るものであらう。
だから、東歌以外の民謡になると、新しくも大津[#(ノ)]宮以前に、大体、纏《まとま》りもし、既
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