うした心境を把持し得た者はなかつた。平安の都も末に近づくと、態度としてさうした境涯を自覚し、標榜する者が出て来た。併し仏教知識の影響を受けたもので、万葉に現れた「細み」の正式に伸びたものではなかつたのである。
業平は自然に対して驚くばかり無感激であつた。其叙景の歌とても、宴遊の即景に祝言を託する様なものか、人の意表に出る様な誇張や、言ひ廻しで、興趣の嵐を起して、当座の人の心を捲き込んで行くと言ふ風なものであつた。
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あかなくに、まだきも月のかくるゝか。山の端《ハ》逃げて、入れずもあらなむ(古今集巻十七)
狩り暮し、たなばたつめに 宿借らむ。天の川原にわれは来にけり(古今集巻九)
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などを見ても知れる。拘泥なく歌ひ上げてゐる。さうして其詞を押し出して、一挙に「心」を形づくるのは、機智だけでは出来ぬことである。そこに濫費せられてゐる情熱があるのだ。彼の生時は、其宴遊の歌の、在来の型を破つた新しさ、放胆らしい其調子によつて、騒がれてゐたものであらう。業平の作品の時代的評価は抒情詩以外にも、あつたことを考へに入れて置く必要がある。
何と言つても、業平の真の価値は、抒情詩を醇化した点にある。万葉集の抒情詩すら、叙事詩脈の劇的表現・民謡式の誇張発想・儀礼上の伝襲的叙述法などから出来たと言ふ事情の忘れられた後代に、古代人の素朴と言ふ予断で、製作動機も醇化せられ、不当に高く評価せられたものであつた。贈答・問答の類も、歌垣の唱和から筋を引くもので、かけあひ[#「かけあひ」に傍点]特有のあげ足とり[#「あげ足とり」に傍線]・はぐらかし[#「はぐらかし」に傍線]・人たらし[#「人たらし」に傍線]・情らしさ[#「情らしさ」に傍線]などが皆過分に含まれてゐる。恋愛発想の歌が贈答せられたからとて、恋仲の人々と速断することは出来ない例が多い。今も、男女の贈答文章に、恋愛気分が纏綿してゐるのは、古い歴史のあることである。
かうして見ると、平安宮廷の女房生活を、其等の人の歌詞から推して、紊《みだ》れきつてゐた様に言ふのは間違ひである。万葉さへさうであつた。後世ほど、浮薄な技巧を弄するやうになつたのは、当りまへである。前後にさうした歌を控へながら、業平の作品は、さうしたかけあひ[#「かけあひ」に傍線]風の贈答にも、まじめなものが多い。相手の笑ひを誘はうと企
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