つたらうか。私は決してさうではないと思ふ。業平の歌の背景なる伊勢其他の伝説がすつかり消えても、歌だけで、伝ふる事の出来た人である。彼の歌は、家持のや黒人のと違うて、自然の前に朧ろに光る孤影を見入つてゐた心、其を更に外へ出して、他人の心の上に落ちる自分の姿を瞻《みまも》つて、こゝにも亦、寂しく通り過ぎる影しかないことを、はかなんでゐる様な心境である。彼の調子は、家持の細みを承けてゐる。併し業平の違うてゐる処は、事実に即した複雑が、真の単一に整頓せられたのではなく、それに対する方法として、出来得る限りの節約を用語の上に行うてゐることである。文法の許すだけは、言語の影を利用し、曲節を附けて、姿態の上に細みを作らうとしてゐる。調子でなく、内容と形式との交錯から来る趣きを整理しようとして居たのである。
だから、業平の作物には、趣きを出す為に無用の論理に低徊することがある。
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月やあらぬ。春や昔の春ならぬ わが身一つはもとの身にして(古今集巻十五)
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の如きは、姿の為に却つて趣きが犠牲になつてゐる。月にも、春にも依然たる旧態を見ると、印象を強めた上に、柔軟性を失はせる反語の圧迫を感じさせる。下の句の自由な拘泥のない「わが身一つはもとの身にして」の調子が安易に浮いて聞える。恋人の上を言はないで、我が身を言ふのも、上の句の形式上の曲節が過重して居らなければよかつたらう。が此場合、下の句の内容の上の曲節が堪へられなくなつてゐる。さういふ処へ、又此反転法に行き遭ふ為、論理の遊戯を厭《いと》はしくさへ感じる。姿は自在の様であり、発想は曲節を尽して居る様だけれども、業平の特色とせられてゐる余韻が、形式は固《もと》より内容の上にもなくなつてゐる。「心剰りて、詞足らず」と古今集序の貫之の評語は、実は「詞剰りて、匂ひ足らず」とでも言ひ替へねばなるまい。
彼に、若し、自然に対する理会があつたとしたら、情景の絡みあひから生じる趣きは、姿のしな[#「しな」に傍線]と相俟つて、真の象徴発想を闢《ひら》いたであらうに、黒人から赤人に、赤人から家持に伝《つたは》つた調子の「細み」と、幽《かそ》かでそして和らぎを覚える「趣き」は、彼にも完成せられず、壬生[#(ノ)]忠岑になつて、稍其に近よつたものが出て来たゞけであつた。偶発的に時々「趣き」を出した者があつても、さ
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