の花となる資格の永久にない声楽のわき[#「わき」に傍線]役であつた事から、舞あるものは舞に先立つて亡び、舞のないものは、新宮廷詩の創作の盛んだつた奈良或は其前から、伝へる者も張り合ひなく、永劫の世界に持ち去られた。謡ひ物としての短歌の末は、古今集・拾遺集の大歌所の歌、其他「神楽歌譜」に記録せられた分を最後と見てよい。
併し、仏家の讃歌方面には、尚一脈の生気が保たれて居て、声楽上の曲節は声明《しやうみやう》化しながらも、平安末に大いに興る釈教歌の導きにはなつた。謡ふ物としてゞなく、神の託宣の文言として、歌が文学以外に口誦せられた事は、室町の頃までも続いたらしい。歌占《ウタウラ》を告げる巫女の口に唱へられる歌であつて、此も神託とは言ひでふ、其所在の大寺の庇護を受けた社々にあつた事故《ことゆゑ》、やはり長篇の讃歌から単純化した今様と、足並みを揃へた曲節であつたらう。かうして室町から江戸に持ち越したなげぶし[#「なげぶし」に傍線]などの、擬古的な文句に仮りに用ゐられて、どゞいつ[#「どゞいつ」に傍線]・よしこのぶし[#「よしこのぶし」に傍線]の分化する導きとなつた。が、其は、真の生命あるものとしての短歌ではなかつたのである。
大歌が短歌を標準とすると共に、短歌は唯一文学としての位置を占め得た。その為奈良の盛時までもあつたらしい宮廷詩人の為事が、辛うじて勢を盛り返して、享楽文人の手に移つて行つた。
大歌の新作は、大歌の用途が狭まつた為に無くなつたが、貴顕の参詣・願果しなどに社々の神の享ける法楽の詞曲として、短歌の新作せられるのが例であつた。東遊《あづまあそび》の歌が其である。其が、讃歌と一つに考へられて、舞踊抜きに歌だけを献じる風を生じた。此が法楽の歌で、平安の都も末になるほど、神祇歌・釈教歌の流行に連れて、益々盛んになり、数も多さを競ふやうになつて行く。
神事舞踊の曲には、替へ唱歌が、多く用意せられて居なければならなかつた。
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大原や小塩《ヲシホ》の山も、今日こそは、神代のことも、おもひ出づらめ(古今集巻十七)
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の歌も、二条后の社参に随行した在原[#(ノ)]業平の、あてつけ[#「あてつけ」に傍線]歌だと言ふ事になつてゐる。けれどもやはり、其は伝説であると思ふ。此時代にも既に、法楽の舞が献ぜられる風があつて、其詞章として召された
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