断を誤つたらしいふつゝかさ[#「ふつゝかさ」に傍点]が見えてゐる。さうして全発想に深い影響のある動詞・副詞などにも、会話語が尠からず混じてゐる容子である。が併し、これは西行の出身が、もと/\無学であるべき筈なのであるから、不思議はない。山家集を見て、折々さうした処に気のつくのは、会話語の発想法が、まだ、純化を経て取り入れられてゐなかつた証拠である。景樹なんどは、あれでなか/\動揺した男で、「一寝入りせし花の蔭かな」「それそこに豆腐屋の声聞ゆなり」などの試みをしてゐる。けれども、これも口語をもつて文語的発想を試みた、と言ひ換へる方が寧適当であらう。代々の俗謡類を見ても、必会話語その儘を用ゐたものとは思はれない。どうしてもいくらか宛形式化し、硬化させてゐる傾きがある。して見れば、短歌の上には何時も、文語即古語・死語・普通文語ばかりを用ゐてゐねばならないであらうか。古語・死語の利用範囲も限りがあらうし、現代の文語でもだん/\硬化の度を増すに連れて、生き/\とした実感を現すことが出来なくなる。限りある言語を以て、極りなくわれ/\の内界を具象して行かうとするには、幾分の無理が残る。譬ひ現代語の表さないものを、古語・死語が持つてゐるにしても、無限に内的過程を説明してゆくことの出来よう筈がない。我々はどうしても、口語の発想法を利用せなければならぬ場合に、今立ち到つてゐるのである。其で、いよ/\、口語の方から、或補充を求めるとなると、まづわれ/\の態度をきめて置く必要がある。其は、(一)[#「(一)」は縦中横]若し、文語と口語とが同量の内容を持つてゐるものとしたならば、口語の方を採らないこと。甚常識的な物言ひの様であるが、形式が違へば、自ら内容の範囲も変つて来なければならない訣で、かういふ場合はあまり無いのであるが、悟性が如何に鋭敏に働いても、知性がこれに伴うて、微細な区別までも意識するといふ事は、総ての人に予期せられない事である。豊富な学才と、敏感とを備へた歌人、並びに読者の少い世の中では、事実、この条件は無用な事かも知れない。(二)[#「(二)」は縦中横]文語に直訳してはならないこと。「春日野に若菜を摘めばわれながら[#「われながら」に白三角傍点]昔の人の心地こそすれ」(景樹)に於ては、われながら[#「われながら」に傍点]の口語らしい臭ひが著しく鼻に附く。これは無意識ながら口語
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