見ても知れる。遠来の神の居る間に、新しく神役――寧、神に扮《ナ》る――を勤める様になつた未受戒の成年に戒を授けて、童《ワラベ》の境涯から脱せしめる神秘を、行うて置くのであつた。この遠来神の行列は、長者《チヤウジヤ》の大主《ウフシユウ》と言ふ、仮装した人を先に立てゝ、その長男と伝へられてゐる親雲上《ペイチン》――実は、その地の豪族を示すものらしい――その他、をどりの人衆が、夫々わり宛てられた役目の服装をした、風流《フリウ》姿で従ふのである。
此は、全くやまと[#「やまと」に傍線]本土にも、室町・戦国を頂上として、前後に永く行はれてゐて、「風流」と呼ばれた仮装行列であつた。唯役々が皆、現代人ではないが、役者は人間だ、といふ考へを持つてゐる。だが此は、八重山の盆祭りに出て来るあんがまあ[#「あんがまあ」に傍線]群行の伝承を参考して見ると、他界の霊物だといふ意識の落ちたまでだ、といふ事が明らかになる。
長者の大主、設けの座に直ると、改めて名のり――炉辺叢書「山原の土俗」参照――をして、祝福せられた生活を感謝し、更に多くの一行が、皆自分の子孫なることの果報を述べる。此は、遠来の神が、土地農作を祝福し、又一行の伴神の、かくの如く数多きを喜び誇る言ひ立ての、合理的変化である。かういふ変化が起ると、当然遠来の神が、別に登場せねばならぬ。中頭・国頭の村々では、儀来《ニライ》の大主《ウフヌシ》なる神が、次に現れる事になつてゐる処も、多いやうである。まづ長者の大主の長子親雲上が立つて、扇をあげて招くと、神の国の穀物の種を携へた、儀来の大主が出て、村・家・作物の祝言を述べて去る。
其に次いで、定式として行はれるものは、狂言である。此は、其村々特有の小喜劇である。その後は、をどりになるので、年と場合とによつて、いろ/\の変更はあるが、狂言だけは、正式に固有の狂言を守つてゐる。ひつくるめて言ふと、人事の滑稽な、争闘後の解決を意味するものから、分化したものらしい。此は必しも、能狂言の影響とは見られない。狂言としては、後には、歌舞妓の「物まね狂言づくし」があり、殆並行したものと思はれるものに、壬生狂言がある。南島へも渡つた念仏の、ある分派の芸能にも、狂言はあつたのである。其後が踊りになると、変遷甚しく、段々、曲目に変化があり、都会風や他村のものを模したのが、次第に殖えて行つて、芸づくしの姿をとる事になつたのである。
儀来河内《ニライカナイ》・おぼつかぐら[#「おぼつかぐら」に傍線]・なるこてるこ[#「なるこてるこ」に傍線]・まや[#「まや」に傍線]など称する、遥かな国から来臨する神及び伴神は、青年の扮する所であつた。が、次第に、その神に常仕する村の巫女が、神意を聴き、時としては神となると考へる様な、信仰形式の変化も、琉球国の各地の諸事由来記の伝承以前に、既に、行はれはじめた。だから、男が稀に聖役に与る事があつても、神に扮する者は、巫女となり替つた。琉球神道は、早く既に神を失うて、神に仕へる者を、神と仰ぐ様になつてゐたのである。かう言ふ風になると、どうしても、村々の若衆の男神《ヰキイガミ》としての神業《カミワザ》の、全部芸能に傾いて来るのは、当然である。村をどりを以て、巫女のみが神幸をまねび、神あそびを行ふ以前から、伝つた神事芸能だと見るのは、此為である。
この村をどりが、地方的に特殊の発達をする中に、ある間切・ある村のものが、づぬけて芸能価値を発揮する様になつて来る。其には、沖縄の伝承にもある様に、地方的の天才の出現が、あつたに違ひない。さうでなくとも、さうした飛躍者を想像させるほど、ある地方のふし・踊り・狂言が、抜け駈けの進歩をする。
首里宮廷で、巫女の神遊を定期にくり返すのは、極めて古い事である。だが、男神なる若衆の仮装群行が、王宮に練り入つて、雑技を演ずる風も、古くから盂蘭盆に接する、満月の夜には行はれてゐた。尠くとも、尚王家中山国建設以前からあつた、民間伝承に違ひない。此は、盆祭りと習合せられた形で、其前は、満月の夜を、三秋の中に択んだのであらう。宮廷の仲秋宴・重陽宴なども、盆の練道《レンダウ》に似て、而も齢高い聖者の登場を、第一としてゐる。
かうして見ると、元からあつた村をどりの、念仏踊りに惹き込まれて行つた形が窺はれる。同時に、村踊りの、組踊りとなつた径路の見当もつく訣だ。狂言は、村の下世話の写実だから、其まゝ移して、宮廷には演じなかつたらう。それには、散文の口語を以て唱和するものを、正楽と認める事が、出来なかつた為もあらう。
律語脈の古語で、科白を綴つた、狂言の高踏的になつたものが、現れて来ねばならぬ。即、由来記・家譜等に残る誇るべき地方伝説に、人情味を加へた物が、出来た訣である。而も、神遊《シンイウ》から出た芸能である為に、顔面表情は固より、しぐさ[#「しぐさ」に傍線]・ふりごと[#「ふりごと」に傍線]を採用するには、困難な事情が考へられる。宮廷や、按司一族との交渉が尠ければ、狂言の方の要素が、濃くなつたらう。さうすると、科白に伴ふ動作表情を主とする劇が、出来るはずであつた。だが、さうは進まないで、歌謡と不即不離の、舞踊劇の方に趨いた。
演劇的組織の基本になるものは、有力な登場者の名のりにはじまつて、更に、あど役との対話に移り、所作あつて後、退場といふ形式である。此だけが備つて居れば、いくらでも複雑化して、劇の姿を構成して行く事が出来るのである。日本の芸能は、大なり小なり、此形だけは保つてゐる。沖縄でいふと、長者の大主・親雲上その他の控へた座へ、儀来の大主の臨んで、科白所作あつて去る形である。
巫女の託遊したあそび[#「あそび」に傍線]ばかりからは、組踊りの成立の過程は思はれない。村踊りが、組踊りの基礎をなしてゐると考へる。組踊りは、以前狂言と謂はれた事もある。此は、村踊りから、発生したものなる事を示す。だから、村踊りから出て、宮廷舞踊として行はれたふし[#「ふし」に傍線]が、実は、村をどりの間に発達した如く、其複合組織せられたものが、組踊りなのである。
飜つて、おもろ[#「おもろ」に傍線]の託遊について考へても、歴史上の事実らしいものを感じさせる内容のあるものには、次第に、多少の表出らしいものを、加へて来ねばならぬ素地がある。併し、さうした方向に趣かずに、堅く無表出を守つてゐたのが、託遊であらう。此が多少、詞章の意識を持つと、舞踊劇としての道が開ける。おもろ[#「おもろ」に傍線]――あそび[#「あそび」に傍線]を伴ふ――に次ぐものは、概念的には――沖縄の用例から見れば、複雑な考へはなり立たうが――こいな[#「こいな」に傍線]とあやご[#「あやご」に傍線]とに分れるだらう。一つは、祝意をこめた詞章と其群舞、一つは叙事詩によつて、――信仰的の意義を忘れた――多少ふり[#「ふり」に傍線]を交へ、又其を忘れた歌詞である。
あやご[#「あやご」に傍線]は、今は宮古島にのみ栄えて、外には衰へたが、此は、小曲の琉歌の抒情気分が、古風な叙事詩を征服した為である。あやご[#「あやご」に傍線]は、叙事を本位としても、無表情である。琉歌は、其成立の歴史を思ふ時、直に其作者の感激が、胸に生きて来る。おもろ[#「おもろ」に傍線]からあやご[#「あやご」に傍線]に展開しなかつた間切・村には、伝説を背景としたふし[#「ふし」に傍線](風)が、古人の情念を伝へるものと信じて、歌舞せられた。此ふし[#「ふし」に傍線]が次第に、琉歌形式に統一せられて行つた。あやご[#「あやご」に傍線]風に傾けば、物語歌の伴奏とも言ふべき曲節を表現する、ふりごと[#「ふりごと」に傍線]となつたらうが、琉歌を原則とする様になつたので、抒情的な気分を加へて行つたのである。
四
村をどりの古い形式のものと、間切・村のふし[#「ふし」に傍線]との関係を説いたが、さうした儀礼に行はれた舞踊が、其まゝ独自の発達を遂げたものであらうか。私は用意しておいた、念仏及び能・歌舞妓の影響を、説く機会に達した。
舞踊としての鑑賞や、細部の研究は、外にふさはしい方々がある。南島本来の式と、やまと[#「やまと」に傍線]のまひ[#「まひ」に傍線]の要素とが混淆してゐる事だけは、私にも言へると思ふ。沖縄のをどり[#「をどり」に傍線]と言ふ語は、やまと[#「やまと」に傍点]伝来の舞踏を意味したのが、語原らしい。従つて其踊りの、やまと[#「やまと」に傍線]に於ける評価以上に尊重して、本格の芸と見たのであらう。くみ[#「くみ」に傍線]の踊りが、その後渡来すると、やはり珍重して、組踊りを最高の踊りとした様なものである。
琉球の踊りは、概して、やまと[#「やまと」に傍線]の緩かな舞ひを、南島流の早間に踊るものである。等しく踊りと言うても、間を緩かにするものが上品だ、と考へられたらしく、さうしたものが、次第に殖えて行つたのであらう。あそび[#「あそび」に傍線]は神事、をどり[#「をどり」に傍線]は芸事と言つた区劃が、出来たのらしい。だが、此はやまと[#「やまと」に傍線]の検校流の奏楽法や、楽器などゝ共に、伝へた後のものが多からう。其以外、古く這入つた千秋万歳のことほぎ[#「ことほぎ」に傍線]系統に属するものが、極めて多く残つてゐる。其等は皆やまと[#「やまと」に傍線]の万歳に見られぬ程の早さながら、日本の舞ひぶりが、其基調になつてゐる事は、其服装以上に、明らかである。
念仏聖の念仏踊りや、万歳舞ひを見た事は、島人の踊りの上の、非常な擾乱であつた。茲に琉球の踊りは、在来の託遊式のあそび[#「あそび」に傍線]に近く、而もある観念と、感情とを備へたものらしくなつた。鹿児島との交渉が密になり、江戸へ朝聘使を送る様になつて、やまと[#「やまと」に傍線]音楽と共に、新しく亦、舞ひや踊りが這入つて来た。さうして、第二期の整理が行はれたものと見てよい。沖縄の踊りを通じて見られるものは、此三種の融合し、或は混淆したものである。が、其特色とする所は、手の使ひ方・上体の動し方・足の踏み方・踊りの間のきまり方などに、現れ過ぎる程現れてゐる。此が固有のふり[#「ふり」に傍線]である。
支那舞踊の影響は、ありさうには思はれない。同様に、能や、歌舞妓の所作事などゝの交渉も、予断せられてゐるほどにはない、と見てよからう。
組踊りでは、出来るだけ優雅にといふ用意を、次第に加へて来た為に、劇舞踊としての卑しさは、尠い様である。かうして、ふし[#「ふし」に傍線]踊り以来の品格を崩すまいとしてゐるのである。だから、能と所作事・景事との間にある程の違ひはない、と言うてよい。此も亦、組踊り成立の当初から、かうではなかつたと思ふ。
五
組踊りの語原として信じられるのは、かうした劇舞踊を一組として勘定して、譬へば「五組」「三組」など言ふところから、演奏番組の聯想を持たれてゐる。能楽の上の番組を、模倣したと考へることである。だが其は、後の合理解で、必、語原は別だと思ふ。
端的に言ふと、組唄の踊りと言ふ事だと考へてゐる。室町以後江戸の初期へかけて、中世以前、上流の専有であつた組歌が、民間に盛んに行はれる様になり、古い琴歌《キンカ》は、いつしか、新しい組唄を生じ、三味線にも組唄がかけられてゐた。此一続きの組唄の謡はれてゐる間に、其気分表現を主とする踊りが、はやり出したのである。
組唄が、古来箏曲家の正式、長唄は、検校家の本格芸と考へられる様になつて、江戸に入る。三味線も、利用繁くなる程、格が低く見られて行つたが、渡来の始めは、検校家の琴の脇として、品高く用ゐられた、はいから[#「はいから」に傍線]な異国楽器であつた。異国楽譜に、名高い民間の歌謡を合せる試みは、平安初期から、盛んに行はれた事で、楽器の音色と、曲譜とから来る、耳馴れた唄の情調の変化を嬉しむ心は、今も変りはない。だから三味線には、琴の神楽風を行く古典的なのと違つて、催馬楽式に、民間の小唄を合せた。そして、琴の組唄組織を写して、小唄組を作つたのである。
茲に一つ、考へねばならぬ事は、江
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