大嘗祭の本義
折口信夫
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)陰事《カクレゴト》
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(例)又|食国《ヲスクニ》
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(例)※[#「にんべん+舞」、第4水準2−3−4]
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(例)氏[#(ノ)]上
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(例)下へ/\
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一
最初には、演題を「民俗学より見たる大嘗祭」として見たが、其では、大嘗祭が軽い意義になりはせぬか、と心配して、其で「大嘗祭の本義」とした。
題目が甚、神道家らしく、何か神道の宣伝めいた様なきらひがあるが、実は今までの神道家の考へ方では、大嘗祭はよく訣らぬ。民俗学の立場から、此を明らかにして見たい。
此処で申して置かねばならぬのは、私の話が、或は不謹慎の様に受け取られる部分があるかも知れない、といふ事である。だが、話は明白にせぬと何も訣らぬ。話を明白にするのが、却つて其を慕ふ事にもなり、ほんとうの愛情が表れる事にもなる。或は、吾々祖先の生活上の陰事《カクレゴト》、ひいては、古代の宮廷の陰事をも外へ出す様になるかも知れぬが、其が却つて、国の古さ・家の古さをしのぶ事になる。単なる末梢的な事で、憤慨する様な事のない様にして頂き度い。国家を愛し、宮廷を敬ふ熱情に於ては、私は人にまけぬつもりである。
二
まづ「にへまつり」の事から話して見る。「にへ」は、神又は天皇陛下の召し上り物、といふ事である。調理した食物の事をいふので、「いけにへ」とはちがふ。生贄《イケニヘ》とは、生《ナマ》のまゝで置いて、何時でも奉る事の出来る様に、生《イ》けてある贄の事である。動物、植物を通じていふ。
只今の神道家では、にへ[#「にへ」に傍線]といへば、生《ナマ》なものをも含めて言ふが、にへ[#「にへ」に傍線]といふ以上は、調理したものを言ふのである。御意の儘に、何時でも調理して差し上げます、といつて、お目にかけておくのが、生贄《イケニヘ》である。ほんとうは食べられる物を差し上げるのが、当り前である。生物《ナマモノ》を差し上げるのは、本式ではない。この贄の事から出発して、大嘗祭の話に這入りたい。
大嘗祭は、古くはおほむべまつり[#「おほむべまつり」に傍線]と言うて居る。おほんべ[#「おほんべ」に傍線]即、大嘗に就ては、次の新嘗・大嘗の処で話す事にして、此処では、まづまつり[#「まつり」に傍線]の語源を調べて見る事にする。此まつり[#「まつり」に傍線]といふ語がよく訣らぬと、上代の文献を見ても、解決のつかぬ事が多い。
まつりごと[#「まつりごと」に傍線]とは、政といふ事ではなく、朝廷の公事全体を斥して言ふ。譬へば、食国政・御命購政などゝ言ふし、平安朝になつても、検非違使庁の着駄《チヤクダ》の政などいふ例もある。着駄《チヤクダ》といふのは、首枷《クビカセ》を著ける義で、謂はゞ、庁の行事始めと言つた形のものである。ともかくも、まつり[#「まつり」に傍線]・まつりごと[#「まつりごと」に傍線]は、其用語例から見ると、昔から為来《シキタ》りある行事、といふ意味に用ゐられて居る。
私は、まつる[#「まつる」に傍線]・またす[#「またす」に傍線]といふ言葉は、対句をなして居て、自ら為る事をまつる[#「まつる」に傍線]と謂ひ、人をして為さしむる事をば、またす[#「またす」に傍線]と謂ふのであると見て居る。日本紀を見ても、遣又は令といふ字をまたす[#「またす」に傍線]と訓ませて居る。
一体、まつる[#「まつる」に傍線]といふ語には、服従の意味がある。まつらふ[#「まつらふ」に傍線]も同様である。上の者の命令通りに執り行ふことがまつる[#「まつる」に傍線]で、人をしてやらせるのをまたす[#「またす」に傍線]といふ。人に物を奉る事をまたす[#「またす」に傍線]といふのだ、と考へる人もあるが、よくない。人をしてまつらしむる事、此がまたす[#「またす」に傍線]と謂ふのである。させる[#「させる」に傍線]・してやらせる[#「してやらせる」に傍線]、此がまたす[#「またす」に傍線]である。
日本の太古の考へでは、此国の為事は、すべて天つ国の為事を、其まゝ行つて居るのであつて、神事以外には、何もない。此国に行はれる事は、天つ神の命令によつて行つて居るので、つまり、此天つ神の命令を伝へ、又命令どほり執り行うて居る事をば、まつる[#「まつる」に傍線]といふのである。
処が後には、少し意味が変化して、命令通りに執行いたしました、と神に復奏する事をも、まつる[#「まつる」に傍線]といふ様になつた。古典に用ゐられて居る「祭り」といふ言葉の意味は此で、即御命令によつてとり行ひました処が、かくのごとく出来上りました、と報告する、神事の事を謂ふのである。
まつり[#「まつり」に傍線]は、多くは、言葉によつて行はれる。即、仰せ通りに致しましたら、此様に出来上りました、と言つた風に言ふのである。此処から段々と「申す」といふ意味に変つて来る。そして、復奏する事をも「申す」といふ様になり、其内容も亦、まつる[#「まつる」に傍線]の本義に、近づく様になつて来た。
まをす[#「まをす」に傍線]とは、上の者が理会をして呉れる様に、為向ける事であり、又衷情を訴へて、上の者に、理会と同情とをして貰ひ、自分の願ひを、相手に容れて貰ふ事である。こひまをす[#「こひまをす」に傍線](申請)などいふ語も、此処から出て来たのだ。此様に、大体に於ては「申す」と「まつる」とは、意義は違ふが、内容に於て、似通つた所がある。此点は又、後に言ふ事にする。
三
日本の天子様は、太古からどういふ意味で、尊位にあらせられるか。古い文献を見ると、天子様は食国《ヲスクニ》のまつりごと[#「まつりごと」に傍線]をして居らせられる事になつて居る。だから天孫は、天つ神の命によつて、此土地へ来られ、其御委任の為事をしに来らせられた御方である。
天子様が、すめらみこと[#「すめらみこと」に傍線]としての為事は、此国の田の生《ナ》り物を、お作りになる事であつた。天つ神のまたし[#「またし」に傍線]をお受けして、降臨なされて、田をお作りになり、秋になるとまつり[#「まつり」に傍線]をして、田の成り物を、天つ神のお目にかける。此が食国《ヲスクニ》のまつりごと[#「まつりごと」に傍線]である。
食《ヲ》すといふのは、食《ク》ふの敬語である。今では、食《ヲ》すを食《ク》ふの古語の様に思うて居るが、さうではない。食国《ヲスクニ》とは、召し上りなされる物を作る国、といふ事である。後の、治《ヲサ》める国といふ考へも、此処から出てゐる。食《ヲ》すから治《ヲサ》める、といふ語が出た事は、疑ひのない事である。天照大神と御同胞でいらせられる処の、月読命の治めて居られる国が、夜の食国《ヲスクニ》といふ事になつて居る。此場合は、神の治《ヲサ》める国の中で、夜のものといふ意味で、食すは、前とは異つた意味で用ゐられて居る。どうして、かう違ふかと謂ふと、日本の古代には、口で伝承せられたものが多いから、説話者の言語情調や、語感の違ひによつて、意味が分れて行くのである。此は民間伝承の、極めて自然の形であつて、古事記と日本紀とでは、おなじ様な話に用ゐられてゐる、おなじ言葉でも、其意味は異つて来て居る。時代を経る事が永く、語り伝へる人も亦、多かつたので、かうした事実があるのである。
さて、食国《ヲスクニ》をまつる[#「まつる」に傍線]事が天子様の本来の職務で、それを命令したのは、天つ神である。古事記・日本紀では、此神を天照大神として居る。此点は、歴史上の事実と信仰上の事実とが、矛盾して居る。歴史上では、幾代もの永い間、天子様は一系で治めていらつしやる。信仰上では、昔も今も同様で、天つ神の代理者として、此土地を治めておいでになる。此土地を御自分の領土になさる、といふ様な事や、領土拡張の事などは、信仰上では、御考へなさらない。天子様は、神の言葉を此国にお伝へなさる為に、お出でになつたのである。此意味がかはつて、神に申し上げる報告の意味が、出たのである。
吾々の考へでは、働かなければ結果が得られない、と訣つて居るが、昔は、神の威力ある詞を精霊に言ひ聞かせると、詞の威力で、言ふ通りの結果を生じて来る、と信じて居た。此土地の精霊は、神の詞を伝へられると、其とほりにせねばならぬのである。貴い方が、神の詞を伝へると、其通りの結果を生じたのである。此が、まつる[#「まつる」に傍線]といふ事で、又|食国《ヲスクニ》のまつりごと[#「まつりごと」に傍線]である。
私は、祭政一致といふ事は、まつりごと[#「まつりごと」に傍線]が先で、其まつりごと[#「まつりごと」に傍線]の結果の報告祭が、まつり[#「まつり」に傍線]であると考へて居る。祭りは、第二義的なものである。神又は天子様の仰せを伝へる事が、第一義である。処が、天子様は、天つ神の詞を伝へるし、又天子様のお詞を伝へ申す人がある。そして又、此天子様の代理者の詞を伝へる人がある。かうして段々、上から下へ、と伝へる人がある。此天子様のお詞を伝へる人をまつりごと人[#「まつりごと人」に傍線]といふ。日本紀には、大夫・宰等の文字が宛てゝある。此大夫や宰は、高い位置の官吏ではないのに、何故まつりごと人[#「まつりごと人」に傍線]などいふ、尊い名称で呼ばれるか。此は、前に言うた様に、段々下へ/\と行くからである。かうした人々の事を、御言持《ミコトモチ》といふ。此意味で、天子様も御言持である。即、神の詞を伝達する、といふ意味である。
神の代理をする人は、神と同様で、威力も同様である。譬へば、神ながらの道などいふ語は、天子様の為さるゝ事すべてを、斥して言ふのであつて、決して神道といふ事ではない。天子様は、神ながらの方で、神と同様といふ事である。神ながらは、信仰上の語であつて、道徳上の語ではない。此意味に於て、天子様のお言葉は、即、神の御言葉である。日本の昔の信仰では、みこともち[#「みこともち」に傍線]の思想が、幾つも重なつて行つて、時代が進むと、下の者も上の者も同様だ、と考へて来た。そして鎌倉時代から、下尅上の風も生じた。日本の古来の信仰に、支那の易緯の考へ方を習合させて、下尅上と言うたのである。此話は、幾らしても限りのない事であるが、申さねば、贄祭りのほんとうの意味が知れないから、述べたのである。
古い時代のまつりごと[#「まつりごと」に傍線]は、穀物をよく稔らせる事で、其報告祭がまつり[#「まつり」に傍線]である事は、前にも述べた。此意味に於て、天子様が人を諸国に遣して、穀物がよく出来る様にせしむるのが、食国の政である。処が穀物は、一年に一度稔るのである。其報告をするのは、自ら一年の終りである。即、祭りを行ふ事が、一年の終りを意味する事になる。此報告祭が、一番大切な行事である。此信仰の行事を、大嘗祭《オホムベマツリ》と言ふのである。
此処で考へる事は、大嘗と、新嘗との区別である。新嘗といふのは、毎年、新穀が収穫されてから行はれるのを言ひ、大嘗とは、天子様御一代に、一度行はれるのを言ふのである。処が「嘗」といふ字を宛てたのは、支那に似た行事があつて、それで当てたのである。新嘗の用語例を蒐めて考へて見ると、新穀を召し上るのを、新なめ[#「新なめ」に傍線]とは言へない。なめる[#「なめる」に傍線]といふ事には、召食《メシアガ》るの意味はない。日本紀の古い註を見ると、にはなひ[#「にはなひ」に傍線]といふ事が見えて居る。万葉集にも、にふなみ[#「にふなみ」に傍線]といふ言葉があり、其他にへなみ[#「にへなみ」に傍線]と書かれた処もある。
今でも、庄内地方の百姓の家では、秋の末の或一日だけ、庭で縄を綯《な》ひ、其が済むと、家に這入る
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