或は、往き[#「往き」に傍線]・過ぎ[#「過ぎ」に傍線]の意かも知れぬ。ともかく、悠紀は大和の東南、主基は西北に当つて居る。此二国が定まる前は、新嘗屋が沢山造られて、其をば、天子様は一々廻つて御覧なされた事と思ふ。
悠紀殿・主基殿は、おなじ囲ひの中にあつて、両殿の界は、目隠しだけである。後世は、立蔀を立てゝ拵へられた。立蔀というても、椎の青葉で立てられたもので、此は、昔の青柴垣の形である。南北に御門がある。御殿は、黒木を用ゐる。黒木といふのは、今考へる様に、皮のついたまゝの木といふ事ではなくて、皮をむいて、火に焼いた木の事である。かうすると、強いのである。昔は京都の近くの八瀬の里から、宮殿の材木を奉つた。此を八瀬の黒木というた。後世には、売り物として、市へも出した。此黒木を出すのが、八瀬の人々の職業であつた。とにかく、此は、神秘な山人の奉る木で、此の黒木で造つた御殿の周囲に、青柴垣を拵へたのである。
かうして、尊いお方の御殿を拵へるのに、青柴垣を以てした事は、垂仁記のほむちわけの[#「ほむちわけの」に傍線]命の話にも見えて居る。
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故、出雲に到りまして、大神を拝み訖《ヲ》へて、還りのぼります時に、肥河の中に黒樔橋《クロキノスバシ》を作り、仮宮を仕へ奉りて、坐《マ》さしめき。こゝに、出雲国造の祖、名は岐比佐都美《キヒサツミ》、青葉[#(ノ)]山を餝《カザ》りて、其河下に立てゝ、大御食献らんとする時に、其子詔りたまひつらく、此川下に、青葉の山なせるは、山と見えて、山にあらず。若《ケタシ》、出雲の石※[#「石+囘」、209−14]《イハクマ》の曾宮《ソノミヤ》に坐す、葦原色許男《アシハラシコヲ》大神を以て斎《イツ》く祝《ハフリ》が、大庭か、と問ひ賜ひき。こゝに、御伴につかはさえたる王等、聞き歓び、見喜びて、御子をば、檳榔《アヂマサ》の長穂の宮に坐《マ》せまつりて、駅使を貢上りき。
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此話は、ほむちわけの[#「ほむちわけの」に傍線]命をして、青葉の山を拵へて、国造の岐比佐都美がお迎へしようとしたのである。即、青葉の山は、尊いお方をお迎へする時の御殿に当るもので、恐らく大嘗祭の青葉の垣と、関係のあるものであらう。かの大嘗祭の垣に、椎の若葉を挿すのも、神迎への様式であらう。尊い天つ神にも、天子様にも、かうするのである。
此、青葉の垣は、北野の斎場では、標の山として立てられる。此は平安朝にはへうのやま[#「へうのやま」に傍線]と発音されて居るが、其は誤つて音読したからである。本来はしめのやま[#「しめのやま」に傍線]で、神のしめる標《シルシ》の山といふ事である。神様を此標の山に乗せて、北野から引いて来て、悠紀・主基の御宮にお据ゑ申す。標の山は神の目じるしとしてのものである。だが後には此標の山は、どうなつて了うたかわからぬ。
併し、此標の山の形のものは、近世まで、祭りの時は引き出す。屋台とか、山車《ダシ》とか、お船とかいふ様なものは、此標の山の名残りの形と見る事が出来る。松本の青山様も、此様式のものであらう。
先に引いた垂仁記のは、古い形のものであらう。此が常に、尊い神や、人をお迎へする時に造られたのであつて、大嘗祭にも注意せられたのである。後世、祭りとして、一番「標の山」が用ゐられたのは、夏祭りの標本なる、祇園の祭りである。祇園祭りといふのは、ほんとうは、田植ゑのさなぶり[#「さなぶり」に傍線]の祭りで、田の神に振舞ひをする祭りであつて、本来は農村の祭りであつた。其が、だん/\と農村から出て、道教の考へと一処になり、怨霊の祟りの考へと一つになつて、御霊の信仰が強くなつた。京都などでは、殊に此考へが盛んになつて、五个処に御霊様を祀つて、御霊会を行ひ、神を慰め、悪事をやめて貰つたのである。こんな風で、後には、悪い事を防ぐ神と信じられて来て、其が仏教と習合して、牛頭天王様であると考へて来たのである。そして、其牛頭天王の垂跡が、すさのをの[#「すさのをの」に傍線]命だといふ様になつた。すさのをの[#「すさのをの」に傍線]命は、農業の神だから、直に一処にして了うたのだ。此時も「山」を出し、其山を中心として、祭りを行ふのである。こんな風で、後には、夏祭りには、鉾や山が行はれるやうになつた。
次に天子様の御禊の話をして見る。

     一二

大嘗祭の用意として、十一月は全体、物忌みの月である。これを散斎と言うて居る。其中で、大嘗祭の前二日と、其当日とをば、殊に、致斎と呼ぶ。散斎は割合に自由な物忌みといふ事で、穢れた事や、神事上の絆れた問題には与らない、といふ程の意味である。致斎の方は、昔は絶対な物忌みであつたらうが、令の規定以来、少しく軽くなり、十月の末日と定められて、山城の京都では、加茂川の某地点で、御禊を行はせられた。かうした御禊は、伊勢の斎宮・加茂の斎院を定められる時も、予めなされる。天子様・斎宮・斎院の御禊は、同一な格式でなされる。平安朝になると、音読してごけい[#「ごけい」に傍線]と言うて居るが、古くは、みそぎ[#「みそぎ」に傍線]と言うて居る。
此所で、少しく、みそぎ[#「みそぎ」に傍線](禊)とはらへ[#「はらへ」に傍線](祓)との区別をいうて見る事にする。
祓へといふのは、穢れ又は、慎しむべき事を冒した場合、又は彼方からして、穢れや慎しむべき事がやつて来て、此方に触れた時に、其を贖ふ為に、自分の持つて居るものを提供して、其穢れを祓ふ事である。神は、此贖ひ物を受けて、其穢れを清めて呉れるのである。元来、祓へは、神事に与る人が、左様にして呉れるから、他動風なものである。自分からするのならはらひ[#「はらひ」に傍線]であるが、はらへ[#「はらへ」に傍線]と他動風に昔からいうて居る。
次に、みそぎ[#「みそぎ」に傍線]といふのは、神事に与る為の用意として、予め、身心を浄めておくことである。家でも、神の来べき時には浄める。謂はゞ、みそぎ[#「みそぎ」に傍線]は、家でも身体でも、神に接する為の資格を得る方法である。後世の神道家は、吉事祓へ・悪事祓へと対照して言ふが、元来、吉事に祓へはない筈である。吉事をまつため、迎ふる為の行事は、禊ぎである。其に対して、祓へは悪事を前提として行はれるものである。謂はゞ、祓へは後世の刑罰に当るものである。
宮廷で大祓へというて居られるのは、実は禊ぎであつて、平安朝の初期から、間違うて居る。だが、まづ罪といふ事を考へて見る。大祓へのうちに、祓ふべき罪・穢れ即、神に対して、慎しむべき事を罪といふ。其中で「天つ罪」といふのは、天上の罪といふ事で、普通にはすさのをの[#「すさのをの」に傍線]尊が、天上で冒した罪を斥していふ。それから此国で慎しまねばならぬ罪を「国つ罪」といふ。国つ罪の中には、勿論慎しまなければならぬ事のあるのは勿論だが、又さうでなく、何でも無い様なのがある。譬へば、這ふ虫の禍罪《ワザハヒ》・たかつどりの[#「たかつどりの」に傍線]禍、かういふのがある。此は、鳥や蛇が家に這入つて来たのは、此家が、神の家になつたといふ標で、其故に慎しまねばならぬ、といふ意味である。
奈良朝の頃でも、此禊ぎと祓へとを混用して、両方とも慎しみ、と考へて居る。祓へは、贖罪として、祭りの費用を出す行事であるし、禊ぎはよい事を待ち迎へる為に、予め家又は、身心を清浄に、美しくする行事である。
日本古来の信仰からいふと、一度呪言を唱へると、何でも新しくなる。それで、新嘗祭の新室も、一言呪言を唱へて、其で、新室と信じきつて居つた。其事が、大嘗祭にも行はれ、また米を食べる神今食の時にも行はれる。其を宮廷では、大殿祭といふ。此は、祭りの行はれる前の日の夜明け方に、仮装した神人が、宮廷を浄めて廻る。家を浄める為である。そして其後で、祭りが行はれる。此清浄になつた家、即大殿へ、神様がお出でになると、天子様は御一処に、此処で御飯をおあがりなされる。凡て神様の来られるお祭りは、神様に振舞ふといふ事が、行事の中心になつて居るものである。
大殿祭は、大嘗祭の時にもあるのであるが、此は、悠紀殿・主基殿が出来ると、直に早く行はれる故に、隠れて見えないのである。此大殿祭の間、天子様は御身浄めの為に、御湯殿へ御這入りになつて居られる。つまり、天子様は、禊ぎをして居られる訣である。
神の祭りの時に、一番初めに出て来る人は、御馳走を享けられる神ではなくて、御殿を浄める為の神人である。此浄めの為に来る人々を、平安朝の考へでは、山人だとされて居る。山人は、山の神に仕へる神人である。本来は山の神が自ら来て、御殿を清めて呉れた、と考へて居るのである。此清浄にされた御殿へ客人神《マレビトカミ》が来て、天子様と御一処に、御飯を召し上るのである。此御殿を清める時の詞を、延喜式によれば、大殿祭祝詞というて居る。
ほかひ[#「ほかひ」に傍線]といふのは、祝福すること、又は其詞、或は動作などをくるめていふのである。此言葉を祝詞というたのは、平安朝の事で、元来は鎮詞《イハヒゴト》、又は鎮護詞《イハヒゴト》などゝいふべき詞である。其語の性質から見ても、仲間の親分が、子分に申し聞かせ、又は相談する様な物言ひぶりである。「かうだから、お互ひに、かうしようぞ」といふ意味が、主要な部分である。上から下への、のる[#「のる」に傍線]ではない。
かうして見ると、山の神は、土地の精霊の代理者で、同じ仲間の者同志である、其精霊の代理者が、精霊を鎮まらせるのである。さて、此いはひごと[#「いはひごと」に傍線]が済んだ後で、本式な祭りが行はれるのである。
大嘗祭の時は、大殿祭は既に済んで居るので、卯の日には、其行事が見えないが、お湯へお這入りになる事は、屡行はれる。本来は、此湯へ這入つて居られる時に於て、一方では、御殿のほかひ[#「ほかひ」に傍線]が行はれて居るのである。大嘗宮は、紫宸殿の前で、南に建てられる。東には廻立殿が造られる。そして、紫宸殿から廻立殿への出御は、廊下を渡つてなされる。
廻立殿といふのは、悠紀・主基両殿へお出でになる御用意の為に、設けられた御殿で、いはゞ祭事の為に、お籠りになる御殿である。
此御殿の名称が、何の故に廻立殿とよばれるか、其は訣らぬ。そして、此廻立殿の御儀式は、外部からは、一切訣らぬものにされて居る。廻立殿は、東西五間、南北三間の御殿である。西側三間を、天子様の居られる所とし、東側二間は、竹の簀子にしてある。此所が、茶の湯所となつて居るが、なにか、忌斎の場所らしい。天子様は、大嘗祭の卯の日の儀式にも、始終、この廻立殿へ出御なされる。そして、御湯をお使ひなされる。此処で、此お湯のお話をする事にする。

     一三

湯は斎《ユ》に通ずる音で、古く湯といつたのが、果して、今の吾々の云ふ所の温いものかどうか、一寸疑問である。斎川水といふ事もあつて、此は、天子様の御身体をお浄めになる水で、用水でも、池でも、泉でも、何でも左様にいふのである。だから、斎川といふのは、御禊に使ふ水をいふ事である。此斎川水が段々と変化して、終には湯にまでなつた、と見るべきである。
日本の古い信仰では、初春には、温い水が遠い国から、此国土へ湧き流れて来る、と信じて居つた。そして事実、日本には温泉が多い。こんな事からして、いづる湯[#「いづる湯」に傍線]についても、神秘な考へを持つて居つた。温泉は、常世の国から、地下を通つて来た温い水で、禊ぎには理想的なもので、そこで、斎川水《ユカハミヅ》として尊重されたものである。又さうでなくとも、斎川水は温いと信じて居つた。こんな風な信仰から、禊ぎには、温い水を用ゐる様になつた。だから古い書物に、湯とあつても、其は、今日の吾々の考へて居る温湯である、と直ぐに、極めつける事は出来ぬ。
藤原の宮から奈良・飛鳥の宮にかけては、天子様が時々、湯に行かれたり、温泉を求められたりした事が、記・紀・万葉集などには、非常に多く出てゐる。此温泉へ旅行せられるのは、今日の吾々の様に、たゞの遊山や避暑ではなく、御禊の信仰の考へから見
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