で、春といふのは、吾々の生活を原始的な状態に戻さうとする時であつて、其には、除夜の晩から初春にかけて、原始風な信仰行事が、繰り返される事になつて居る。つまり、原始時代に一度あつた事を毎年、春に繰り返すのである。古代の考へでは、暦も一年限りであつた。国の一番始めと、春とは同一である、との信仰である。此事からして、天子様が初春に仰せられる御言葉は、神代の昔、ににぎの[#「ににぎの」に傍線]尊が仰せられた言葉と、同一である。又、真床襲衾を被られ、其をはねのけて起たれた神事、そして、日の皇子となられた事など、其がつまり、代々の天子様が行はせられる、初春の行事の姿となつて居るのである。

     八

元旦の詔詞は、後には書かれて居るが、元は、天子様御自分で、口づから仰せ出されたものである。だからして、天子様の御言葉は、神の言葉と同一である。神の詞の伝達である。此言葉の事を祝詞《ノリト》といふ。今神主の唱へる祝詞は、此神の言葉を天子様が伝達する、といふ意味の変化したものである。
のる[#「のる」に傍線]といふのは、上から下へ命令する事である。上から下へ言ひ下された言葉によつて、すべての行動は規定される。法・憲・制等の文字に相当する意義を持つて居る。祝詞は正式には、天[#(ツ)]祝詞[#(ノ)]太祝詞といふのである。のりと[#「のりと」に傍線]は、のり[#「のり」に傍線]を発する場所の事で、神座の事である。而して、此神座で発する言葉が、祝詞である。「天つ祝詞の太祝詞ごと」とは、神秘な壮大崇高な場所で下された御言葉、といふ事である。此尊い神座の事を高御座といふ。
高御座とは、天上の日神の居られる場所と、同一な高い場所といふ意味である。だから、祝詞を唱へる所は、どこでも高御座となる。そんなら、御即位式の時に昇られる高御座は、何を意味するかといへば、前述の様に、天が下の神秘な場所、天上と同一な価値を持つて居る所、といふ意味である。天子様の領土の事を天が下、天子様の御家の事を天のみかど[#「天のみかど」に傍線]などいふのは、天上の日の神の居られる処と、同一な価値を持つて居る処、といふ意味である。みかど[#「みかど」に傍線]といふ語が後には、天子様の版図の事にもなるのは、此意味であり、後には、天子様の事をも申し上げる様になつて来て居る。
高御座で下される詞は、天上のそれと全く同一となる。だから、地上は天上になる。天子様は、天上の神となる。かうして、時も、人も、所も、詞も、皆元へかへる。不思議な事に、天上にある土地の名が、其々地上にもある。天の安河原は、天上の土地の名であるが、近江の国にもある。天上に高市《タケチ》があるかと思へば、倭にも高市郡がある。天上から降つて来た土地だなどいふ伝説も、かうした信仰から出たのである。
天子様は、申すまでもなく、倭の神主であらせられて、神事が多い故に、常に御物忌みをせられなければならぬ。殆ど一年中祭りをして居らせられねばならぬ。此は、信濃の国の諏訪の神主に見ても知れる様に、年中祭りに忙殺されて居る。天子様は、日本中の神事の総元締めで、中々やりきれない。そこで、日本には中臣といふ御言詔持《ミコトモチ》が出来た。此中臣は、天子様と群臣との中間に居て、天子様の御言葉を、群臣に伝達する職のものである。
それから、天子様と、神との中間に在るものを、中天皇《ナカツスメラミコト》といふ。万葉集には、中皇命と出してある。此中皇命の役に立つものは、多くは、皇女或は后などである。
中臣は主として、天子様の御言葉を伝達するのが、為事であつた。元来なら、天子様が申されるはずの祝詞をも、中臣が代理で申すのだ。だから後には、中臣の詞が、祝詞と云はれる事になつた。今ある祝詞は、平安朝の延喜年間に書きとられたものである。平安朝には、斯様に、固定して居たのであらう。其前には、常に詞章が変化して居た、と見るべきである。後には、中臣の家一軒に定まつて了ひ、且、次第に勢力を得て来た。此は御言葉伝達《ミコトモチ》の職をつとめたからである。
今ある祝詞は、一般に古いものとされて居るが、実は古い種の上に、新しい表現法が加はつて居る。神代ながらのものは無い。奈良朝又は平安朝頃の手加減が加はつて居る。古い姿のまゝでは、訣らなかつたのである。時代々々で理会し易い様に、変へて了ふ。又、故意になさずとも、口伝の間に、自ら誤りが生ずる。祝詞の中では、何の事か訣らなくなつて、手のつけようのなかつたと思はれる部分が、古いものである。天つ神の言葉とされて居るのを、天子様が高御座で唱へられるのが、古い意味の祝詞である。中臣の手に移つてからは、祝詞の価値は下つて了うた。
奈良朝の少し前頃から、地方の神々が、朝廷から良い待遇を受けて居る。平安朝では、地方の神々に、位を授けて居る。朝廷の神は別として、それ以外の地方神は、精霊の成り上りで、天子様よりは、位が下の筈である。だから、天子様から位を授けられるのも、尤な事である。併し、位を授けられてからは、漸次地位が高くなつて来て、遂には天子様と同じ程の位のものにも考へられて来た。其で地方神に申される言葉が、対等の言葉づかひで申される様になつて来た。処が、伊勢の天照大神に対しては、天子様の方が、下位に立たれて居る。だから、天子様が伊勢の大神に申される御言葉は、元来|寿言《ヨゴト》の性質のものである。だが、延喜式では、前者も後者も等しく、祝詞と称して居る。
かうした訣で、祝詞には、今日から見れば、種々の意味があるが、ほんとうは天子様が、高御座で仰せ出されるのが、祝詞である。祝詞の中では、春の初めのが、一番大切である。古くは、大嘗祭の後に、天子様の即位式があつた。昔は、即位式といつて、別にあつた訣ではない。真床襲衾からお出になられて、祝詞を唱へられると、即、春となるのである。
元来、大嘗祭と、即位式と、朝賀の式とは、一続きである。其間に於て、四方拝といふのは、元来は、天子様が高御座から、臣下や神に対して、お言葉を下される事を斥して、言うたのであつたが、後に、支那の道教の考への影響を受けて、天子四方を拝すといふ様になつて了うた。

     九

此処で大嘗祭に奏上される寿詞に就て言うて見る。
寿詞とは服従を誓ふ時に、即、自分の守り魂を奉る時に、唱へる言葉である。此は国々に伝はつて居る物語と、同様なものである。後には変化して、宮廷と自分等の氏々、又は、国々との関係の、初めを説く様になつた。其で、宮中に仕へて居る役人等は、自分の職業の本縁・来歴を説く物語を申し上げる。朝廷に直接に、仕へて居る役人のみでなく、地方官・豪族の首長、又、氏々の長なども、地方を又は、氏々を代表して、寿詞を申し上げる。此事は、近世まで、初春の行事に、其儀を留めて居る。一年に二度行はれたらしい様子も、盆の行事に、其名残りが見えて居る。今日民間でも、初春に「おめでたう」といふのは、おめでたく今年一年間いらせられまする様に、といふ寿詞の最大事な部分が、単純化されたものである。此を言ふのが、即、服従を誓ふ所以である。
処が、初代から、朝廷に仕へて来た人々の寿詞と、国々で申し上げる寿詞とは、性質が違うて居る。初代からのものは、自分の職業の神聖なる所以と、来歴とを説くし、国々のは、天子様に服従した来歴・関係を物語るのである。譬へば、天孫降臨の時に、ににぎの[#「ににぎの」に傍線]尊がつれて来られた、五[#(ノ)]伴[#(ノ)]緒の子孫等の申される寿詞は、古いものであるが、朝廷と国々との関係を申し上げる物語は、新しい寿詞である。此寿詞をば、大嘗祭・即位式・元旦此三つの場合に申されるのである。後には、春と大嘗祭との二度、代表者で、間に合せる事になつた。
元旦の朝賀の式に、天子様が祝詞を下される式は、奈良朝には既に、陰に隠れて了うて、群臣が寿詞を申し上げに出る式のみとなつた。此は、物部とか、蘇我とか、大伴とかいふ、高い氏の代表者が出て、申し上げるのであつた。処が、大嘗祭の時には、中臣氏が代表して、寿詞を申し上げるのである。即、自分の家の職業を申し、天寿を祝福して、百官を代表するのである。同時に、諸国の寿詞が奉られるが、此諸国の寿詞の話は、後に言ふ事にして、此処では、中臣の寿詞の話をする。
後世では、大嘗祭の第二日目の辰の日の卯の刻に、中臣[#(ノ)]天神[#(ノ)]寿詞を奏上する。天子様は、此より少しまへに、悠紀殿へ御出御になり、つゞいて皇太子・群臣が着座する。そこへ神祇官の中臣が、榊の枝を笏に取り添へて、南門から這入つて、定座に着いて、寿詞を申し上げる。即位式にも、全く此と同様な事を行ふ。此から見ても、即位式と大嘗祭とは同一であると言へる。
では、中臣[#(ノ)]天神[#(ノ)]寿詞とは何かといふと、全く中臣の寿詞で、天つ神の寿詞ではない。元来、この寿詞は、藤原頼長の台記の中に書きとられたのが、残つたものである。康治元年に、近衛天皇が、即位式を挙げられた時に用ゐられたのを、書きとつたものである。実に、偶然な幸ひであつた。
寿詞の大体の意味は、次の如くである。
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中臣の遠つみ祖である処のあめのこやねの[#「あめのこやねの」に傍線]命、皇御孫尊にお仕へ申してあめのおしくもねの[#「あめのおしくもねの」に傍線]命をして、二上山に登らしめて、其処で、天神にお尋ね申さしめられるには、皇御孫尊に差し上げる御膳の水は、如何致したらよろしうございますか、と申された。すると、天神の教へ諭されるには、其は、人間界の水と、天上の水とを一処にして、差し上げねばならぬ。あめのおしくもねの[#「あめのおしくもねの」に傍線]命は又、お尋ねした。然らば、其を得るには、如何致したらよろしうございますか、と問ふと、天神は、玉串をお授けになつて、言はるゝ事に、此玉串を地上に立てゝ、夕日の時から、朝日の照り栄える時まで、天つ祝詞と太祝詞を申せ。かく申せば、その祝詞の効力に依つて、直に兆象が顕れる。そして若蒜が五百個、篁の如く生える。そこを掘つて見ると、天の八井が湧く。その水をとつて奉れ、と教へられた。だから、此をおあがりなさいませといふ。
[#ここで字下げ終わり]
つまり、中臣としての聖職の歴史を申し上げるのである。此縁故・来歴によつて、悠紀・主基の地方の米に、天つ水をまぜて、御飯を炊き、お酒をこしらへて、天皇に差し上げる。此をお召しあがりなされると、天子様は健康を増し、弥栄えに栄えられるのである。
中臣家は、水の事を司る家筋である。だから、天子様の御湯殿にも、仕へる。そこからして、后が出る事にもなる。つまり中臣は、水の魂を天子様に差し上げる聖職の家である。言ひ換へれば、中臣の家は、水の魂によつて生活して居る家筋である。其故、水の魂を、天子様に差し上げるといふ事は、自分の魂を差し上げる事になる。中臣は、群臣を代表して居るから、他の臣たちのも、此意味で、各々の家筋の魂を天子様に奉る事になる。昔は、神事と家系とは、切り離す事の出来ぬ、深い/\関係があつたのである。
譬へば、大伴家にしても、本来は、宮廷の御門を守つた家筋である。一体「伴」といふのは、何にてもあれ、宮廷に属して居るものをいふ語であつて、大伴は御門の番人である。記・紀を見ると、門の神をば、大苫部と言うて居る処がある。大苫部と大伴部とはおなじで、門をお預りして居る役人といふ事である。後世は、かういふ職の役人も増して来て、物部の家筋の者も、御門の番人となつて来た。そこで、門部の発達をも見る様になつた。平安朝では、大伴は単に、伴というて居る。
大嘗祭の時に、悠紀・主基の御殿の垣を守る為に、伴部の人と、門部の人とが出る。此は両者同一な役を勤めるが、元来は、異つた系統の者である。此等の御門の番人は、元来は或呪言を以て、外来の悪い魂を退けたのである。此等の家筋の頭をば、伴造と云ひ、其部下の者をば、伴部又は部曲というて居る。此頭即、伴造は、種々あるが、神主の地位に居たのであつた。神主たる職業を以て、天子様に仕へて居た。此者達が、後には官吏化して、近衛
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