村々の祭り
折口信夫
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【テキス禊中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)間《マ》が
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)家|群《ムラ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「さんずい+文」、第3水準1−86−53]
[#(…)]:訓点送り仮名
(例)長尾[#(ノ)]市[#(ノ)]宿禰
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)とう/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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一 今宮の自慢話
ことしの夏は、そんな間《マ》がなくて、とう/\見はづして了うたので、残念に思うてゐる。毎年、どつかで見ない事のない「夏祭浪花鑑」の芝居である。音羽屋と言ふ人の、今度久しぶりで、院本に拠つた団七九郎兵衛は、見たかつたけれども、今更どうにもならない。でも、其演出は原作に忠実であつたと言ふだけに、一个処見て置きたい場面があつた。「祇園囃しの祭りの太鼓。ちようや、ようさ。ようさや、ちようさ。……」かう言ふ調子づいた原文の、祭りの日の気分の写生が、十分に出たかどうかゞ触れて見たかつたのである。どうも、あれを思ひ出させられると、たまらない。大阪で少年期を過して、今、四五十になつて居る人たちの胸は、底からゆすり揚げられる気がする。義平次殺しの日は難波祭《ナンバマツ》りらしく書いてあるが、私の育つたのは、おなじ「八阪《ヤサカ》さま」を祀つても、社は別々の隣村であつた。でも、日もおなじければ、曳く飾り山もおなじだいがく[#「だいがく」に傍線]と言ふ大きな鉾《ホコ》であつた。此だいがく[#「だいがく」に傍線]は、大阪南方の近在では皆舁いたものらしいが、最後まで執著を残してゐたのは、私の生れ里であつた。何でも五六年息まつて居て、最後に舁いたのが、日露戦争の済んだ年であつたと思ふ。
天王寺も今宮も、早く止めたが、やはりだいがく[#「だいがく」に傍線]を舁いた村である。産土神から言へば、難波・木津の祇園なのに適当だが、村の歴史から言へば、今宮が一等此に縁深さうに見えるのである。今宮は小西来山の十万堂の残つてゐる処で、果して真作かどうか疑はしいけれど、「今宮は、虫どころなり。つんぼなり。」と言ふ句が、諺の様に、いまだに旧住民の子孫には伝はつて居る。その没風流に比興した聾の夷神で名高くもなつた。村の氏神と祀られて居るのは、夷の社ではなく、おさき次郎兵衛の心中のあつた杜にあつた広田の社である。それで居て、土地の旧家の書き物にも、村人の自慢話にも京の八阪社との深い関係を説いてゐる。「祇園のお御輿《ミコシ》も、今宮が出んなら、びり/″\[#「びり/″\」に傍点]動きもせん。」かう信じもし、言ひふらしもした。隣村の我々などは、さうした由緒のないことを肩身狭く感じた事さへある。これは嘘でも、ま違ひでもなかつた。大阪の旧地誌は固より、京都側の書き物にも、其通りに伝へて居るのが段々ある。八阪の駕輿丁の出る村だから、京の山鉾を似せて、舁き出したと言ふ事もなり立つかも知れぬ。だが、此小話では、そんな点迄かたづけて居る事は出来ぬ。
二 夏祓へから生れた祭り
広田の氏子が、祇園の神人《ジンニン》であるといふ事は、一体、どうした事であらう。だが、此は不思議でも何でもない。かうした例なら、幾らでも挙つて来る。
日吉の神輿は、京方へおりると、きまつて加茂河原の細工(皮)の家|群《ムラ》に立ちよられた。さうして権現が人間の世に、世話を申した「小次郎」の子孫のもてなしを受けられるのだと説明してゐる。此は、固より仮りの説明であつた。山王の神人として、遠く離れ住んだ奴隷村なのであつた。其が、何時からか、卑人の渡世として我人共に認めた馬具細工をする様になつてゐたのである。謂はゞ此は、神輿洗ひであり、麓川の贄《ニヘ》を献る事を職として居たものであつたらしいのである。今宮の村は、元、祇園の神輿を浪花の海まで舁き下つて、神の禊《ミソ》ぎの助けをし、海の御調《ミツギ》を搬ぶ様になつて居たらしい証拠がある。今宮の駕輿丁の話は、祇園の神の召使ひであつた俤を示すと共に、広田や西の宮(夷神)と引つかゝりを見せてくれるのである。
元々、禊ぎの神でもないのに、広田・西の宮は古くから、住吉・※[#「さんずい+文」、第3水準1−86−53]売《ミヌメ》の神々とごつちやに考へられて来た。禊ぎの助手である海辺の民が、其方面の神を主神とするのは、不思議のない話である。一体祇園は、古い「夏|祓《ハラ》へ」の形をがらりと変らした神であつた。行疫神自身であつた天王が、夏の季に、新来の邪悪の霊を圧服して、海の彼方へ還つて行かれるものと考へ出したのは、平安の都がやつと落ちついた頃からの事である。其に結びついたのは、在来の夏の禊ぎの行事であつた。川社を設け、八十瀬の祓へを行ひ、夏|神楽《カグラ》を奏する。皆、帰化人将来の祇園信仰が、民間伝承の上に結びついて来てからの事であつた。
其を早めるのには、卜部や陰陽師の手助けが非常にあつた。陰陽師の唱へる祭文と言へば、大祓詞の抜き読みと言つてよい「中臣祓」の外に、殆ど祝詞らしいものゝなくてすむ様になつて行つた。江戸時代の神道者と言へば、唯、禊ぎ祓へばかりを掌つてゐた様に見える。神道を陰陽道によつて神学化し、仏教によつて哲学化した卜部流の力を示してゐるまでゞある。其を嫌うた国学の先輩たちも、仏教臭味を嗅ぎ分けた程には、長く久しい道教のわりこみを、切りほぐす事は出来なかつた。
祭りは、禊ぎに伴ふ夏神楽から出て居る。神楽は鎮魂のために行ふものであつた。禊ぎの後の潔まつた身の内に、外来の威霊を堅く結び止めようとする儀式である。冬の凍る夜に限つた楽舞《アソビ》が、夏にも行はれるやうになつたのである。
三 まつり[#「まつり」に傍線]の語原
今までのところでは、まつり[#「まつり」に傍線]の語原が、あまり説き散されて、よしあしの見さかひもつきかねる程になつてゐる。其中では「祭りは、献《マツ》りだ。政は献《マツ》り事《ゴト》だ」と強調して唱へられた、先師三矢重松博士の考へが、まづ、今までの最上位にあるものである。
まつる[#「まつる」に傍線]と言ふ語が正確に訣らないのは、古代人の考へ癖が呑みこめないからだと思ふ。神の代理者、即、御言実行者《ミコトモチ》の信仰が、まづ知られねばならぬ。にゝぎの命[#「にゝぎの命」に傍線]は、神考《カブロギ》・神妣《カブロミ》のみこともち[#「みこともち」に傍線]として、天の下に降られた。歴代の天子も、神考《カブロギ》・神妣《カブロミ》に対しては、にゝぎの命[#「にゝぎの命」に傍線]と同資格のみこともち[#「みこともち」に傍線]であつた。さうして、天子から行事を委任せられた人々は、皆みこともち[#「みこともち」に傍線]と称せられる。宰の字をみこともち[#「みこともち」に傍線]と訓むのは、其為である。
みこと[#「みこと」に傍線]とは神の発した咒詞又は命令である。みこと[#「みこと」に傍線]を唱へて、実効を挙げるのがもつ[#「もつ」に傍線]である。「伝達する」よりは重い。神に近い性格を得てふるまふことになる。み言[#「み言」に傍線]の内容を具体化して来ると言ふ意義が、まつる[#「まつる」に傍線]の古い用語例にあつたらしい。それは、またす[#「またす」に傍線]・まつる[#「まつる」に傍線]の対立を見れば知れる。語根まつ[#「まつ」に傍線]をる[#「る」に傍線]とす[#「す」に傍線]とで変化させてゐる。使・遣と言ふ字が、日本紀の古訓には、またす[#「またす」に傍線]と始終訓まれてゐる。まつりだす[#「まつりだす」に傍線]・まつだす[#「まつだす」に傍線]などゝは、成立を別に考へねばならぬ語であつた。意訳すれば、命を完了せしめると言ふ様にも説けよう。み言を具体化してやる。かう言つた意義が、まつ[#「まつ」に傍線]を中にして、通じてゐる。其実現した状態を言ふ語が、また[#「また」に傍点](全)し[#「し」に傍点]なのである。
第一義に近いと解する事の出来るのは「酒ほかひの歌」である。
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この御酒《ミキ》は、吾が御酒《ミキ》ならず。くし[#「くし」に傍点]の神 常世《トコヨ》に坐《イマ》す いはたゝす すくな御神《ミカミ》の、神寿《カムホキ》 寿《ホ》きくるほし、豊ほき 寿《ホ》き廻《モト》ほし、まつり[#「まつり」に傍線]来《コ》し御酒ぞ。あさず飲《ヲ》せ。さゝ(仲哀記)
[#ここで字下げ終わり]
まつる[#「まつる」に傍線]の処は、記・紀共に、一致して伝へてゐる。此まつる[#「まつる」に傍線]は献じに持つて来たとはとれぬ。「来《コ》し」は経過を言ふので、「最近までまつり続けて来た所の」の義であつて、後代なら来た[#「来た」に傍点]と言ふ処だ。即、『神秘な寿ぎの「詞と態《ワザ》と」でほき、踊られてまつり[#「まつり」に傍線]来られ、善美を尽した寿き方で、瓶の周りをほき廻られて、まつり続けて来られた御酒だよ』と言ふ事になる。「まつりこし」のまつる[#「まつる」に傍点]は、「ほきまをす」に当るのでまをす[#「まをす」に傍線]の出ぬ前の形である。「ほき言」を代宣《マツ》るの義に説けばよい。天つ神の代りに、「酒精《クシ》の神少彦名」が、酒の出来るまで、ほき詞をくり返し唱へたと言ふのだ。まつる[#「まつる」に傍線]の語根は、まつ[#「まつ」に傍線]らしいと、前に言うて置いた。咒詞の効果のあがる事の完全な事を示して、また[#「また」に傍点](全)し[#「し」に傍点]と言ふ語のあることをも述べて置いた。まつる[#「まつる」に傍線]者にして、命じる者の側では、またす[#「またす」に傍線](遣・以・使遣)がある。神の代理者即、御言執行《ミコトモチ》として神言を伝達すると共に、当然伴ふ実効を収めて来る意だ。まつろふ[#「まつろふ」に傍線]が服従の義を持つのは、まつる[#「まつる」に傍線]が命令通りに奉仕する、と言ふ古義がある事を見せてゐるのである。其大部分として、「食国《ヲスクニ》の政」が重く見られてゐた為に、献るの義に傾いたのだ。とりも直さず、神の御食《ミヲ》し物を、神自身のした如く、とり収めて覆奏する事から、転じて、人間の物を神物として供へる、と言ふ用語例になつたものに違ひない。まつる[#「まつる」に傍線]の原義は、やはり、神言を代宣するのであつたらしい。
のる[#「のる」に傍線]と言ふのは、代宣者を神と同格に見て言ふ語であつた。我が国の文献時代には、まつる[#「まつる」に傍線]は既に世の中を自由にする・献る・鎮魂する・定期に来臨する神を待つて楽舞を行ふ、と言つた用語例が出来て居り、神意による公事を行ふと言ふ義は、古伝の詞章の上に固定して残つてゐたのらしい。古い祭事には「まつり」をつけて言はないのが多いのも、まつり[#「まつり」に傍線]の範囲が広かつたからである。私は「待つ・献《マ》つ・兆《マチ》」などから出たものと考へてゐた事もあるが、其等は第二義にも達せぬ遅れたものであつた。「……まつる」と文尾に始終つく処へ、まつろふ[#「まつろふ」に傍線]の聯想が加つて、自卑の語法となつて来たのだ。
八百稲千稲にひき据ゑおきて、秋祭爾奉〔牟止〕…参聚群《マヰウゴナハ》りて…たゝへ詞|竟《ヲ》へまつる……(龍田風神祭)
この「秋祭」は、今言ふ「秋祭り」ではなく、秋の献りものとして奉らむと言ふ意であらう。此などになると、覆奏・奏覧などの義から遠のいて、献上すると言ふ事になつてゐる。かうして、祭りが、幣帛其他の献上物を主とするものゝ様に考へられて来て、まつり[#「まつり」に傍線]・まつりごと[#「まつりごと」に傍線]に区別を考へ、公事の神の照覧に供へる行事を政といひ、献上物をして神慮を和《ナゴ》め、犒《ネギラ》ふ行事としてまつり[#「まつり」に傍線]を考へわけたのではなかつたらうか。
四 夏祭り
平安朝に著
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