、古くから可なり深く信じられてゐた。此月を祭り月とするのは、旁、意義のあることであつた。
神社以前・以後で、祭りの様子も変つてゐる。後の方のは、祭りの日どりが大体きまつて来て、特殊な由緒を日どりに繋げて説く様になつて来る。極めて古くからのものであつても、段々祭り日を定める必要が起つて来た。さう言ふ時代に、新しく起つた神社がしたのとおなじ方法をとる事になつた。月を定めて、日は十干によるのが、其である。古代からの自由な祭祀も、稍古い神社祭事も、大抵此方法を採用してゐる。
だが、干支を用ゐ出したのも、先住・帰化の漢人などから習慣としてとりこんだ事を思ふと、極めて古いに違ひない。が、今一つ前の形は、占ひによつて定めるか、天体の運行をめど[#「めど」に傍線]として行うたらしい。さうした俤は、後に日どりの一定せられた幾つかの祭りから窺ふ事が出来る。道教の先覚者だけが、暦を悟る事が出来、其考へ次第に動いてゐた時代には、春祭りを行うた為に春になつた。また、冬祭りが冬の窮まつた事を規定した。
八 冬祭り・春祭り
此を見ても、村々の秋の祭りは新嘗から出て居り、其が神嘗祭の日に近く、荷前《ノザキ》の初穂の一部を以て行ふ様になつた事が知れる。だが、八幡の様に、大祓への仏教化したに違ひない放生会を、秋の最中の八月十五日に行ふのもあり、七月の相撲節会は稲穂の出ようとする際の、農村の年占・豊凶争ひの宮廷行事に残つてゐたのだが、九月になつて、童相撲其他を行ふ住吉の社の類も尠くない。だが、一方住吉の十三夜の日の相撲会は、新嘗祭りから出て居る事は明らかである。
大阪辺の社でも、昔は九月尽の日には、神送りを行うた。出雲への旅立ちを見送るのだと言ふ。だが、秋冬の交叉期に、精霊を送り出す式が、かう解釈せられたものと見るがよい。或は又、田の神・水の神が今まで居たものと考へて居た為、其を海の方へ送り帰したのかも知れぬ。
即、新嘗を享けに遥々来て、戻る神は、夏秋中留つて居て、冬際になつたから去るものと考へたらしいのである。大阪の町にも、かうした農村行事が固定して残つて居たのだ。
何にしても、早稲の新嘗と村の守り神との関係が、色々に変化しながら、秋祭りを複雑化したのであつた。
冬祭りは、刈り上げ祭りと、鎮魂祭とが本体であつた。此内、刈り上げ祭りは、十一月中旬の新嘗祭りが代表的なもので、処によつては、今尚、此日を重く
前へ
次へ
全13ページ中11ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング