の子孫には伝はつて居る。その没風流に比興した聾の夷神で名高くもなつた。村の氏神と祀られて居るのは、夷の社ではなく、おさき次郎兵衛の心中のあつた杜にあつた広田の社である。それで居て、土地の旧家の書き物にも、村人の自慢話にも京の八阪社との深い関係を説いてゐる。「祇園のお御輿《ミコシ》も、今宮が出んなら、びり/″\[#「びり/″\」に傍点]動きもせん。」かう信じもし、言ひふらしもした。隣村の我々などは、さうした由緒のないことを肩身狭く感じた事さへある。これは嘘でも、ま違ひでもなかつた。大阪の旧地誌は固より、京都側の書き物にも、其通りに伝へて居るのが段々ある。八阪の駕輿丁の出る村だから、京の山鉾を似せて、舁き出したと言ふ事もなり立つかも知れぬ。だが、此小話では、そんな点迄かたづけて居る事は出来ぬ。
二 夏祓へから生れた祭り
広田の氏子が、祇園の神人《ジンニン》であるといふ事は、一体、どうした事であらう。だが、此は不思議でも何でもない。かうした例なら、幾らでも挙つて来る。
日吉の神輿は、京方へおりると、きまつて加茂河原の細工(皮)の家|群《ムラ》に立ちよられた。さうして権現が人間の世に、世話を申した「小次郎」の子孫のもてなしを受けられるのだと説明してゐる。此は、固より仮りの説明であつた。山王の神人として、遠く離れ住んだ奴隷村なのであつた。其が、何時からか、卑人の渡世として我人共に認めた馬具細工をする様になつてゐたのである。謂はゞ此は、神輿洗ひであり、麓川の贄《ニヘ》を献る事を職として居たものであつたらしいのである。今宮の村は、元、祇園の神輿を浪花の海まで舁き下つて、神の禊《ミソ》ぎの助けをし、海の御調《ミツギ》を搬ぶ様になつて居たらしい証拠がある。今宮の駕輿丁の話は、祇園の神の召使ひであつた俤を示すと共に、広田や西の宮(夷神)と引つかゝりを見せてくれるのである。
元々、禊ぎの神でもないのに、広田・西の宮は古くから、住吉・※[#「さんずい+文」、第3水準1−86−53]売《ミヌメ》の神々とごつちやに考へられて来た。禊ぎの助手である海辺の民が、其方面の神を主神とするのは、不思議のない話である。一体祇園は、古い「夏|祓《ハラ》へ」の形をがらりと変らした神であつた。行疫神自身であつた天王が、夏の季に、新来の邪悪の霊を圧服して、海の彼方へ還つて行かれるものと考へ出したのは、平安の都がや
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