て、人形廻しは台辞をつけぬことになった。非常な違いである。
だから、その前の「ひひな使ひ」は、「ひひな」に関する叙事詩を語っていたにちがいない。それが抒情詩になってきた。昔男があって、長者の女に通うたということを歌いながら人形を使う。すると世間の人は「ひひな」自身が物語をしているというふうに理解する。従来日本の民間に行なわれている唱導文学の聞き方からいうと、どうしてもある一種の神事にあずかる人、すなわち「ほかひ人」のする芸能は、神がいうていると聞く習慣があるために、人形が語っているように感ずる。
われわれからいうと、地の文、詞の部分、さわり[#「さわり」に傍点]の部分はみな別であるが、昔はほとんど詞の部分がなく、地の文ばかりで、それを人形自身が語っていると感ずる習性を、昔の人はもっていた。
「ひひな」とは何か。これは既にいってあるので、深く話すとくり返しになるが、一口にいうと、普通の学者は形代(人間の身体の替りのもの)と考えている。この形式が、いろんなものに分化していく。盆暮に社から人間の形に切った紙を出す。それに米など添えて社に持って行く。これも形代である。このように種々に分れて
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