いる。ところが江戸になって非常に盛んに行なわれる語、書物に出はじめたのは鎌倉であるから、武士から出はじめた語であろうが、それに「お伽」という語がある。
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大王深山にして嶺の木の子《み》をひろひ、沢の若菜を摘みて行ひ給ひける程に、一人の梵士出で来て、大王のかくて行ひ給ふこと希代のことなり。御伽[#「御伽」に傍点]仕るべしとて仕へ奉る。 (宝物集第五)
ありつる人のうつり来んほど御伽[#「御伽」に傍点]せんはいかが。」
おぼえ給へらん所々にてものたまへ、こよひ誰も御伽[#「御伽」に傍点]せん。」  (増鏡)
いや一人居やらば伽[#「伽」に傍点]をしてやらう。  (狂言 節分)
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「御伽」ということの意味はわからない。寝ている傍についていて物語をすることらしい。それから宿直のことまでいうようになる。私は、これにはどうしても性欲的な意味がありそうに思う。
 いわゆる、御伽婢子(はひこ→はうこ)というものがある。(本の名にもなった。この書を江戸の怪談小説のはじめとするが、そうではない。)貴い人の寝ている傍についているものである。これは形式である。もと「あまがつ」(天児)というものがあって貴い人の寝間にあって守っていると考えているが、これは寝ている人の形代なのである。だんだん子供の寝間につくようになる。子供は寝ている間も、起きている間も同じである。それがだんだん変化して蓋のあるものになる。つまり天児から御伽婢子というものになる。御伽婢子は寝間におく連想から、汚ないものを入れるようになる。天児には何を入れたか、たぶん最初は何も入れたのでもなかろう。寝間の傍に獅子、狛犬がつく。獅子と狛犬とは区別がないのだろうが、獅子、狛犬というので二つになる。宮廷から出て、社でも貴族の家でもいちばん奥のところ、寝所とみられるところにおいてある。畢竟雛なのであるが、できる経路はわからぬ。しかし、寝間で番する根拠はわかる。仕事が変わっただけである。
「ひひな」は普通は人間の形代であり、人間の雛型だから、それがけがれを吸収する。だからそれを棄てればよいのだと考えている。ところが「ひひな」は古くから日本の家庭では玩具になっている。われわれは何ともなく思うが、「ひひな」はけがれを吸収したものだから、身辺にあるが恐しいものである。これが玩具となるのは飛躍しているわ
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