愈疑惑の心を燃え立たせた。
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揺拍子。それを、円満井では、えら[#「えら」に傍点]執心ぢやといふぞ。此ばかりや瓜生野座の命ぢやらうて、坂下や氷上の座から、幾度土べたに出額をすりつけて、頼んで来ても伝授さつしやらなんだ師匠が、われだけにや伝へられた揺拍子を持ち込みや、春日あたりでは大喜びで、一返に脇役者ぐらゐにや、とり立てゝくれるぢやろ。根がそのぬつぺりした顔ぢやもんな。……けんど、けんど、仏神に誓言立てゝ授つた拍子を、ぬけ/\と繁昌の猿楽の方へ伝へて、寝返りうつて見ろ。冥罰で、血い吐くだ。……二十年鞨鼓や簓ばかりうつてるこちとら[#「こちとら」に傍点]とつて、うつちやつては置かんぞよ。
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制※[#「咤−宀」、第3水準1−14−85]迦はとう/\泣き出した。自身の荒ら語は、胸をかき乱し、煽り立てた。
分別男は、長い縁を廻りまはつて、師匠のゐる前まで、身毒を引き出した。
源内法師は、目を瞑つて、ぢつと聞いて居た。分別男の誇張して両方をとりもつた話ぶりに連れて、からだ中の神経が強ばつて行くやうに思はれた。自身がまだ氷上座に迎へられて行かなかつた頃、瓜生野家の縁の日あたりで、若かつた信吉法師の口から聞かされた一途な語を、目のあたりに復、聞かされてゐるやうに感じた。彼の頭には、卅年前と目の今の事とが、一つに渦を捲いた。さうして時々、冷やかな反省が、ひやり/\と脊筋に水を注いだ。彼は強ひて、心を鎮めた。さうして、顔もえあげないでゐる身毒の、著しくねび整うた脊から腰へかけての骨ぐみに目を落してゐた。分別男や身毒の予期した語は、その脣からは洩れないで、劬る様な語が、身毒のさゝくれ立つた心持ちを和げた。
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おまへも、やつぱり、父の子ぢやつたなう。信吉房の血が、まだ一代きりの捨身では、をさまらなかつたものと見える。
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かういふ語が、分別男や身毒には、無意味ながら悲しい語らしく響いて語り終へられた。深いと息が、師匠の腹の底から出た。
分別男は、疳癖づよい師匠にも似あはぬことゝ思うて、拍子抜けのした顔でゐた。師匠ももうとる年で、よつぽど箝が弛んだやうだと笑ひ話のやうにして制※[#「咤−宀」、第3水準1−14−85]迦を慰めた。
あけの日は、東が白みかけると、あちらでもこちらでも蝉が鳴き立てた。昨日の暑さで、一晩のうちに生れたのだらう、と話しあうた。草の上に、露のある頃から、金襴の前垂を輝かす源内法師を先に、白帷子に赤い頬かぶりをして、綾藺笠を其上にかづいた一行が、仄暗い郷士の家から、照り充ちた朝日の中に出た。さうして、だら/\坂を静かに練つておりた。制※[#「咤−宀」、第3水準1−14−85]迦は、二丈あまりの花竿を竪てながら、師匠のすぐ後に従うた。
一行が遠い窪田に着いた頃、ぽつちりと目をあいた身毒は、すまぬ事をしたと思うて床から這ひ出した。衣装をつけて鞨鼓を腰に纏うてゐた時、急にふら/\と仰様にのめつたのである。鼻血に汚れた頬を拭うてやりながら、師匠は、も暫らく寝て居れと言うた。
身毒は、一夜睡ることが出来なかつたのである。今の間に見た夢は、昨夜の続きであつた。
高い山の間を上つてゐた。道が尽きてふりかへると、来た方は密生した林が塞いでゐる。更に高い峯が崩れかゝり相に、彼の前と両側に聳えてゐる。時間は朝とも思はれる。又日中の様にも考へられぬでもない。笹藪が深く茂つてゐて、近い処を見渡すことが出来ない。流れる水はないが、あたり一体にしとつてゐる。歩みを止めると、急に恐しい静けさが身に薄《セマ》つて来る。彼は耳もと迄来てゐる凄い沈黙から脱け出ようと唯むやみに音立てゝ笹の中をあるく。
一つの森に出た。確かに見覚えのある森である。この山口にかゝつた時に、おつかなびつくりであるいてゐたのは、此道であつた。けれども山だけが、依然として囲んでゐる。後戻りをするのだと思ひながら行くと、一つの土居に行きあたつた。其について廻ると、柴折門があつた。人懐しさに、無上に這入りたくなつて中に入り込んだ。庭には白い花が一ぱいに咲いてゐる。小菊とも思はれ、茨なんかの花のやうにも見えた。つひ[#「つひ」に傍点]目の前に見える櫛形の窓の処まで、いくら歩いても歩きつかない。半時もあるいたけれど、窓への距離は、もと通りで、後も前も、白い花で埋れて了うた様に見えた。彼は花の上にくづれ伏して、大きい声をあげて泣いた。すると、け近い物音がしたので、ふつと仰むくと、窓は頭の上にあつた。さうして、其中から、くつきりと一つの顔が浮き出てゐた。
身毒の再寝《マタネ》は、肱枕が崩れたので、ふつゝりと覚めた。
床を出て、縁の柱にもたれて、幾度も其顔を浮べて見た。どうも見覚えのある顔である。唯、何時か逢うたことの
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