。神々の奇蹟は、信ずる信ぜないはともかくも、神の道徳と人の道徳とを常識一遍で律しようとするのは、神を持たぬ者の自力の所産である。空想である。さうした処から、利用も、方便も生れて来る。二代三代前の神主の方々ならば、恐らく穢れを聞いた耳を祓はれた事であらう。県庁以下村役場の椅子にかゝつて居る人々が、信念なく、理会なく、伝承のない、当世向きの頭から、考へ出した計画に、一体どこまで、権威を感ずる義務があるのであらうか。当座々々に適する事を念とした提案に、反省を促すだけの余裕は、是非神職諸君の権利として保留しておかねばならぬ。其には前に言うた信念と学殖とが、どうしても土台になければ、お話にはならない。信念なくして、神人に備つて居るのは、宮守りに過ぎない。事務の才能ばかりを、神職の人物判断の目安に置く事を心配するのは、此為である。府県の社寺係の方々ばかりでなく、大きな処、小さな処で、苟も神事に与るお役人たちに望まねばならぬ。信念堅固な人でこそ、社域を公開してあらゆる施設を試みても、弊害なしに済されよう。これのない人々が、どうして神徳を落さない訣にゆくだらう。
信念の地盤には、どうしても学殖が横たは
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