ない発案である。結婚式場となつて居る例は、最早津々浦々に行き亘つて居る。品評会場・人事相談所・嬰児委托所などには、どうやら使はれ相な気運に向いて来た。世間は飽きつぽい癖に、いろんな善事を後から/\と計画して行く。やつとの事で、そろ/\見え出した成績が、骨折りにつり合はぬ事に気がつくと、一挙にがらりと投げ出して、新手の善事に移つて行く。一等情ないめを見るのは、方便善の一時の榜示杭になつて居たものである。神社及び神職が、さうしたみじめ[#「みじめ」に傍点]を見る事がなければ、幸福である。
抑亦、当世の人たちは、神慮を易く見積り過ぎる嫌ひがある。人間社会に善い事ならば、神様も、一も二もなく肩をお袒《ぬ》ぎになる、と勝手ぎめをして居る。信仰の代りに合理の頭で、万事を結着させてゆかうとする為である。信仰の盛んであつた時分程、神の意志を、人間のあて推量できめてかゝる様な事はしなかつた。必神慮を問ふ。我善しと思ふ故に、神も善しと許させ給ふ、とするのは、おしつけわざである。あまりに自分を妄信して、神までも己が思惟の所産ときめるからだ。信仰の上の道徳を、人間の道徳と極めて安易に握手させようとするのである。神々の奇蹟は、信ずる信ぜないはともかくも、神の道徳と人の道徳とを常識一遍で律しようとするのは、神を持たぬ者の自力の所産である。空想である。さうした処から、利用も、方便も生れて来る。二代三代前の神主の方々ならば、恐らく穢れを聞いた耳を祓はれた事であらう。県庁以下村役場の椅子にかゝつて居る人々が、信念なく、理会なく、伝承のない、当世向きの頭から、考へ出した計画に、一体どこまで、権威を感ずる義務があるのであらうか。当座々々に適する事を念とした提案に、反省を促すだけの余裕は、是非神職諸君の権利として保留しておかねばならぬ。其には前に言うた信念と学殖とが、どうしても土台になければ、お話にはならない。信念なくして、神人に備つて居るのは、宮守りに過ぎない。事務の才能ばかりを、神職の人物判断の目安に置く事を心配するのは、此為である。府県の社寺係の方々ばかりでなく、大きな処、小さな処で、苟も神事に与るお役人たちに望まねばならぬ。信念堅固な人でこそ、社域を公開してあらゆる施設を試みても、弊害なしに済されよう。これのない人々が、どうして神徳を落さない訣にゆくだらう。
信念の地盤には、どうしても学殖が横たは
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