詞の表現法を余程会得した。尠くとも、私自身としては、胸の奥・心の底から感得したと思うてゐる。
私は学校で、万葉の講義をしてゐるが、時々、なぜこんなに、すら/\と平気に、講義をすることが出来るか、と不思議に思ふ事がある。先達諸家の恩に感謝する事は勿論であるが、此処に疑ひがある。教へながら、釈きながら居る人の態度として、懐疑的であるといふのは、困つたものであるが、事実、日本の古い言葉・文章の意味といふものは、さう易々と釈けるものではなさゝうだ。時代により、又場所によつて、絶えず浮動し、漂流してゐるのである。然るに、昔から其言葉には、一定の伝統的な解釈がついてゐて、後世の人は其に無条件に従うてゐるのである。私は、これ程無意義な事はないと考へる。
其は私が、祝詞に於ける経験及び、古事記或は降つて、源氏物語を現代語に訳し直して、書き改めて見ての、厳粛な実感であるが、譬へば「天之御蔭・日之御蔭」といふ言葉でも、さうである。恐らく現今では、あの言葉が、常に同じ用語例を守つてゐるもの、と信じてゐる人は尠いであらうが、尚、少数の守株の敬虔家のあることも考へられる。其外の古い言葉でも、記・紀・祝詞・続紀・風土記の類を通じて、用ゐられてゐる同語にして、同じ用語例に入れては、解けないものが多く存在する。此は、今日の言葉に就ても、言はれる事であらうと思ふが、其が典型的な語義である、と予断されてゐる以外に、もつと違つた形のある事が、忘れられてゐはすまいか。若しそんな事実がないと思ふならば、其は余りに、前代の学者の解釈にたより過ぎて、当然せねばならぬ研究を、十分にしてゐない為ではあるまいか。此だけは、どなたの前に立つても、私の言ひ得ることあげ[#「ことあげ」に傍線]である。
次田潤さんも、あの「祝詞新講」を公にされるまでには、随分苦しまれたであらうと思ふが、実際に古い言葉を現代語に引き直して見ると、つく/″\困難を感ずる。尤、一通りの解釈は誰にでもつくが、本当に深く考へ出すと、訣らない事が多い。思ふに此は、口伝への間に変化したもので、各時代、各個人の解釈で、類型的の意味に於ての語義の、次第に其形が改められて行つた結果であらう。
前に言うた「天之御蔭・日之御蔭」の語でも、家の屋根とも解せられるが、又万葉巻一の人麻呂の詠らしい「藤原宮御井歌」を見ると、天日の影をうつす水とも取れるし、其外尚色々の意味
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