への口うつしの話に、なぜ短歌の挿入が必要なのだらうか。話し手などよりも、数段も上の境涯に居るものなる事を見せる為であつた事は、考へられるのである。
馬琴などの仲間のよりあひ話を録した「兎園小説」には、其隣国の下総にも、狐の子供のあつた話が、而も正真正銘狐の子孫と自称する人の口から聞いた聞き書きが載つて居る。江戸下谷長者町の万屋義兵衛の母みねは、下総赤法華村の孫右衛門方から出た人の娘である。六代前の孫右衛門が、江戸からの戻り道、ある原中で女に会うて、連れ戻つたところ、其働きぶりが母親の気に入つて、嫁にする事となつた。子供を生んだ後、添乳をして居て尻尾を出した。子供が泣き騒いだので、女は何処かへ逃げて行つた。いろ/\尋ねて見ると、向うの小山に、子供のおもちやの土のきせる[#「きせる」に傍線]や、土の茶釜が置いてあつた。やはり此辺に居るに違ひないと言ふ事になつたが、此子成人の後、孫右衛門を襲いだが、処の人は「狐おぢい/\」と言うた。後に発心して廻国に出たが、其儘帰つて来ないと伝へて居た。みね[#「みね」に傍線]は幼少の時其家に行つて、狐の母が残したおもちやを見た事があつたとある。此はもう歌を落して居る。土焼きのおもちやを子供に持つて来て、置いて行つたなどは、近代的とでも言はうか。なまじつかな歌を残すよりも、憐が身に沁むではないか。此三つの話は、土地の近い関係から、大体同じ筋に辿られる。
こゝまで話が進むと、最初そんな愚かな事が、と言ふ様な顔をしてゐられたあなた方の顔に、ある虔《ツヽマ》しさが見え出した。或はさうした事実があつたかも知れない、とお考へ始めになつたものと推量しても、異存はなさゝうである。「狐おぢい」始め、女化原の二様の伝説では、別に其子が賢かつたとも言うて居ないが、狐腹の子は、概して雋敏な様だ。併し、狐の子だから、母方の猾智を受けるものと見る訣にはゆかない伝説が、まだ後に控へて居るのである。
田舎暮しには、智慧を問題にはしない。凡人の生活の積み重りなる田舎の家の伝説には、英雄・俊才の現れる必要は、一つもない。とにかく其家には、祖先以来、軒並みの人間以外の血のまじつて居る事さへ説明出来れば、十分だつたのに違ひない。村人の生活はどんな事をも、平凡化する方が、考へぐあひがよかつたものらしく、この話なども今少し古くには、しかつめらしい形で伝へられて居たものと見られる。稲敷郡根本村の百姓と狐との間に生れた子が、河内[#(ノ)]庄の岡見の家に仕へて栗林下総守義長と言うて、智略に長け、勇力優れた人であつた。此話は、天正頃の事と言ふが、其は疑へるにしても、前の三つよりは、古い形と信じてよいのである。
四
同じやうな考へ方の、今一例をあげると、名高い物臭《モノクサ》太郎なども、江戸時代の信州に伝つて居た形は、極めてありふれたものになつて居る。「中昔の事なるに」と室町時代の「物臭太郎の双紙」に見えた主人公は、伝説では江戸時代の人になつて居る。物臭太郎は、日本あるぷす[#「あるぷす」に傍線]登山鉄道と言ふ方が適当な、信濃鉄道の穂高駅の近所に在る、穂高の社の本地物なのである。だから、此方の話も、松本市から北西の地方で、根を卸したものと見てよからうと考へる。つまり物臭太郎出世譚の平凡化したものだ。
物臭太郎と言ふ人、或時自分の田を作つて居ると、見知らぬ女が手伝ひに来た。こんな働き者なら、女房にしたらよからうと言ふ考へで、家に入れた。非常によく稼いでくれる。子が産れて後、添乳してまどろむ中、尻尾を出して居た。其をよそから戻つた物臭太郎――今は亭主――が見つけた。此は、とんでもない処を見た。併し知らぬ風をしてやらうと、まう一返表へ出て、今度は、ばた/″\足音を立てゝ戻つて、何喰はぬ顔で居た。処があけ[#「あけ」に傍点]の日になると、子供が騒ぎ出した。母親が姿を隠したのである。いぢらしいから乳離れまで居てやつてくれと言つたが、とう/\戻らなかつた。其代りには、其家が段々富み栄えて、長者になつたと言ふのである。
なぜ此人を物臭太郎と言うたのか判然しない辺から見ても、頗古い話の「ある人」にあり合せの、其地方の立身一番の人の名をくつゝけたゞけで、つまりは田舎人のさうした点に対するものぐさ[#「ものぐさ」に傍線]から出たものであらう。此は「炭焼き」や「芋掘り」の山人の出世を助ける高貴の姫の話が、狐腹の家の物語に入り込んだものと見てよさゝうである。松本|平《ダヒラ》辺は、玄蕃《ゲンバ》[#(ノ)]允《ジヨウ》の様な長命の狐の居た処とて、如何様狐の話が多い。
保福寺峠の麓、小県郡の阪井は、浦野氏の根拠地であつた。浦野弾正尚宗の女は、小笠原家に嫁いで、長時を生んだ(又、正忠の女、長時の妻とも)。此奥方の生みの母も狐であつた。浦野家では、それ以来皆、乳首が四つある事になつた、と言うて居た。小笠原の奥方並びに、其腹の子たちには、そんな評判は立たなかつたが、其でも狐だけは、小笠原家につき纏うて居る。小笠原家が、豊前小倉に国替への後、突如として狐が姿を現した。貸本屋本から芝居へ移つて、今尚時々見聞きする、小笠原隼人を中心とした小笠原騒動の一件は、由来が遠い処にあるのである。長時は、小笠原家には大切な人である。
蒲生氏郷も、狐の子だと言ふ伝へがある。偽書と称せられて居る「江源武鑑」と言ふのにある話で、尠くとも「江源武鑑」の出来た時に、さうした伝説が、何かの書物か、民間の伝へにあつた事だけは信ぜられる。
江州日野の蒲生氏定の奥方が、急に逃げ出して了うた。実は、三年前にほんとうの奥方をば喰ひ殺した狐が、後釜に据り込んで居て、忠三郎(氏郷の通称)を産んだのであつたと言ふ。さすれば、氏郷は狐の子であるから、秀いでた処があるのだ、と見た人々の心持がわかる。蒲生家については、別に狐腹なる為の身体上の特徴は言ひ伝へて居ない様だ。
こゝまで来れば、安倍晴明《アベノハレアキラ》の作つたと言ふ偽書――併し江戸の初めには、既にあつた――「※[#「竹かんむり/甫/皿」、第3水準1−89−74]※[#「竹かんむり/艮/皿」、第4水準2−83−69]《ほき》内伝抄」によつて、葛の葉の話が、ちよつと目鼻がつき相に見える。早急を尊ぶ態度の、おもしろくない事を証明する為に、仮りに結論を作つて見よう。
此は名高い話で、葛の葉の話の唯一の種の様に言うて来てゐるのであるが、此話は、江戸以前尠くとも室町の頃には、既に纏つて居たものと見られる。晴明の母御は、人間ではなかつた。狐の変化であつたのが、遊女になつて諸国を流浪して居る中、猫島に行つて、ある人に留められて、其処に三年住んだ。其間に子が出来たので、例の歌を残して去つて了うた。子は成人して陰陽師となつた。都に呼びよせられた時、母の恋しさに、和泉国信太[#(ノ)]杜《モリ》へ尋ねて行つて拝んで居ると、年経る狐が姿を顕した。其が、晴明の母の正体だつたといふのである。
合理的な議論を立てれば、人まじはりの出来ぬ漂浪民《ウカレビト》の女だから、畜生と見て狐になつて去つたといふのであらう。殊に信太[#(ノ)]杜の近くには、世間から隔離せられて居た村が今もあるから、其処から来た女だらうと言ふ様なことも言はれよう。こんなあぢきない知識も、後世には其部落の伝説となるかも知れない。此記載が角太夫ぶしの正本を生み、竹本座の正本にまで発達したのだとして、此でまづ、一通りの説明はつく様だが、此だけで説き尽されたものと考へられては、甚残念である。
五
「大内鑑」や「信太妻」の作者が、此だけの種に、脚色をつけたものと思はれぬのは、もつと考へねばならぬ色々の種を含んで居る点である。譬へば、なぜ童子或は童子丸といふ名が、葛の葉の子に与へてあるのだらう。※[#「竹かんむり/甫/皿」、第3水準1−89−74]※[#「竹かんむり/艮/皿」、第4水準2−83−69]内伝抄では、問題になつて居ない点である。
意識上の事実もあらうが、多くは無意識的に、色々な記憶――時として個人の胸に再現するものを籠めて――を持ち出して居るのである。「物臭太郎の双紙」と同じ傾向で、所謂お伽双紙の中にこめられて居る「狐の双紙」と言ふのを見ると、或僧都が家に居ると、乗り物をもつて迎への者が来る。其に乗つて行くと、立派な家に入つた。僧都は、其処の女あるじと契りをこめる事になる。暫らく其家で暮して居た処が、或日、若僧が二三人、錫杖をふり立てゝ出て来た。其を見ると、女たちは大騒ぎして逃げ散つた。ふつと目を覚すと、御堂の縁の下で寝て居たのだ。畳と思うたのは、蓆のちぎれたものだつたといふ様な話で、とんと[#「とんと」に傍点]我々の耳にまだ残つて居る、狐につまゝれたお百姓たちの、所謂実験談其儘である。私どもの聞いた話は、大抵狐もあつさりして居て、よく/\執念深い狐で通つてゐる奴の外は、仏の利益がなくとも、背中の一つもどやされると、気のつく程度のものばかりである。此点、狐が呪法の上に主な役目をしなくなつた時代を見せてゐるのだと思はれる。此は、後の話が、そこに触れて行く事と思ふ。
右のお伽双紙の原画とまで思はれるものが、平安朝でも古い処にある。三善清行、備中介であつた頃、聞いた事である。実際其当人をも知つて居る様に書いてあるのだが。備前小目|賀陽《カヤ》[#(ノ)]良藤、妻に逃げられて気落ちした様になつて居た頃、菊の花に結びつけた消息を、一人の女が持つて来た。其には、ある身分の高い女が良藤を思うて居るよしが認《したた》めてある。良藤は、其女の処へ通ひ始めて、後には、家を出て女の家に三年暮した。其中に、子どもが出来た。良藤は先妻の子を廃嫡して、此子に後を継がせよう、とまで考へてゐた。ある日、一人の僧が杖を持つて現れて、良藤の背中を叩いた。其女は其と見るや、逃げて了うた。良藤は、自分の家の倉の床下、普通なら這入れさうもない処に居たのである。女は勿論狐であつた。這ひ出して来た良藤は、真青になつて居た。良藤の見えなくなつてから、家人は大騒ぎして、坊さんを招いて祈祷した功徳で助かつたのである。
こゝらに来ると、葛の葉との縁は、大分遠くなつたが、狐の人事関係は、よほど緻密になつた筈である。大祓の祝詞の国つ罪を見ても、祖先の中には、恥しながら、色々な動物を性欲の対象に利用した事実のあつた事が推察出来る。併し、狐の様な馴れにくい獣を犯す事が、ありさうには思はれない。猪との性関係の話が、今昔物語に見えたりするのは、猪の馴れた豚を対象にした事実から逆説出来るかも知れぬが、狐の如きは到底考へに能はぬ所だ。だから、一切獣の子孫・獣の変化《ヘンゲ》との恋愛譚は、皆人間の性欲関係からきり放して、考へねばなるまいと思ふ。
良藤の事は、今昔物語にも出て居るから「狐の双紙」は其敷き写しとも思はれるが、だまされ手を坊さんにしたのは、合点がゆかない。起りは、何処にあらうとも、一先《ひとまづ》民間の話になつてゐたものを、やゝ潤色して書いたのだらうと思ふ。
狐と人間との関係は、もつと溯つて言ふ事が出来る。平安朝の極の初め、嵯峨天皇の時に出来たものだが、内容は殆ど奈良朝気分を持つて、奈良以前の伝説を書いて置いた日本霊異記の中に、美濃の国の狐[#(ノ)]直《アタヘ》(又、美濃狐)と言ふ家に関した伝説が載つてゐる。欽明天皇の御代、其家の祖先なる男が、途中で遇うた美しい女を連れ戻つて、夫婦になつた。其女が、子どもを産んだ。其子の産と殆ど同時に、其家の犬が亦産をした。其犬の子が、翌年の春、庭を歩いて居る其女房に咬みついた。驚いた余りに、元の姿を顕して、垣に逃げのぼつて、家を出て行かうとした。夫がなごりを惜しんで、此からも毎夜「来つゝ寝よ」と言ふと、夜は来ることになつた。それで子の名を「きつね」其獣の名も「きつね」といふ様になつたとある。此子、力は人に優れて居たのみか、其四代目の孫女に、馳ける事極めて捷く、力逞しい女が出て居る。
此「狐[#(ノ)]直《アタヘ》」まで溯れば、まづ日本に於ける狐と人との交渉の輪郭は話し得たことになる。
六
日本
前へ
次へ
全6ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング