ない知識も、後世には其部落の伝説となるかも知れない。此記載が角太夫ぶしの正本を生み、竹本座の正本にまで発達したのだとして、此でまづ、一通りの説明はつく様だが、此だけで説き尽されたものと考へられては、甚残念である。
五
「大内鑑」や「信太妻」の作者が、此だけの種に、脚色をつけたものと思はれぬのは、もつと考へねばならぬ色々の種を含んで居る点である。譬へば、なぜ童子或は童子丸といふ名が、葛の葉の子に与へてあるのだらう。※[#「竹かんむり/甫/皿」、第3水準1−89−74]※[#「竹かんむり/艮/皿」、第4水準2−83−69]内伝抄では、問題になつて居ない点である。
意識上の事実もあらうが、多くは無意識的に、色々な記憶――時として個人の胸に再現するものを籠めて――を持ち出して居るのである。「物臭太郎の双紙」と同じ傾向で、所謂お伽双紙の中にこめられて居る「狐の双紙」と言ふのを見ると、或僧都が家に居ると、乗り物をもつて迎への者が来る。其に乗つて行くと、立派な家に入つた。僧都は、其処の女あるじと契りをこめる事になる。暫らく其家で暮して居た処が、或日、若僧が二三人、錫杖をふり立てゝ出て来た。其を見ると、女たちは大騒ぎして逃げ散つた。ふつと目を覚すと、御堂の縁の下で寝て居たのだ。畳と思うたのは、蓆のちぎれたものだつたといふ様な話で、とんと[#「とんと」に傍点]我々の耳にまだ残つて居る、狐につまゝれたお百姓たちの、所謂実験談其儘である。私どもの聞いた話は、大抵狐もあつさりして居て、よく/\執念深い狐で通つてゐる奴の外は、仏の利益がなくとも、背中の一つもどやされると、気のつく程度のものばかりである。此点、狐が呪法の上に主な役目をしなくなつた時代を見せてゐるのだと思はれる。此は、後の話が、そこに触れて行く事と思ふ。
右のお伽双紙の原画とまで思はれるものが、平安朝でも古い処にある。三善清行、備中介であつた頃、聞いた事である。実際其当人をも知つて居る様に書いてあるのだが。備前小目|賀陽《カヤ》[#(ノ)]良藤、妻に逃げられて気落ちした様になつて居た頃、菊の花に結びつけた消息を、一人の女が持つて来た。其には、ある身分の高い女が良藤を思うて居るよしが認《したた》めてある。良藤は、其女の処へ通ひ始めて、後には、家を出て女の家に三年暮した。其中に、子どもが出来た。良藤は先妻の子を廃嫡して、此子に後を継がせよう、とまで考へてゐた。ある日、一人の僧が杖を持つて現れて、良藤の背中を叩いた。其女は其と見るや、逃げて了うた。良藤は、自分の家の倉の床下、普通なら這入れさうもない処に居たのである。女は勿論狐であつた。這ひ出して来た良藤は、真青になつて居た。良藤の見えなくなつてから、家人は大騒ぎして、坊さんを招いて祈祷した功徳で助かつたのである。
こゝらに来ると、葛の葉との縁は、大分遠くなつたが、狐の人事関係は、よほど緻密になつた筈である。大祓の祝詞の国つ罪を見ても、祖先の中には、恥しながら、色々な動物を性欲の対象に利用した事実のあつた事が推察出来る。併し、狐の様な馴れにくい獣を犯す事が、ありさうには思はれない。猪との性関係の話が、今昔物語に見えたりするのは、猪の馴れた豚を対象にした事実から逆説出来るかも知れぬが、狐の如きは到底考へに能はぬ所だ。だから、一切獣の子孫・獣の変化《ヘンゲ》との恋愛譚は、皆人間の性欲関係からきり放して、考へねばなるまいと思ふ。
良藤の事は、今昔物語にも出て居るから「狐の双紙」は其敷き写しとも思はれるが、だまされ手を坊さんにしたのは、合点がゆかない。起りは、何処にあらうとも、一先《ひとまづ》民間の話になつてゐたものを、やゝ潤色して書いたのだらうと思ふ。
狐と人間との関係は、もつと溯つて言ふ事が出来る。平安朝の極の初め、嵯峨天皇の時に出来たものだが、内容は殆ど奈良朝気分を持つて、奈良以前の伝説を書いて置いた日本霊異記の中に、美濃の国の狐[#(ノ)]直《アタヘ》(又、美濃狐)と言ふ家に関した伝説が載つてゐる。欽明天皇の御代、其家の祖先なる男が、途中で遇うた美しい女を連れ戻つて、夫婦になつた。其女が、子どもを産んだ。其子の産と殆ど同時に、其家の犬が亦産をした。其犬の子が、翌年の春、庭を歩いて居る其女房に咬みついた。驚いた余りに、元の姿を顕して、垣に逃げのぼつて、家を出て行かうとした。夫がなごりを惜しんで、此からも毎夜「来つゝ寝よ」と言ふと、夜は来ることになつた。それで子の名を「きつね」其獣の名も「きつね」といふ様になつたとある。此子、力は人に優れて居たのみか、其四代目の孫女に、馳ける事極めて捷く、力逞しい女が出て居る。
此「狐[#(ノ)]直《アタヘ》」まで溯れば、まづ日本に於ける狐と人との交渉の輪郭は話し得たことになる。
六
日本
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