稲敷郡根本村の百姓と狐との間に生れた子が、河内[#(ノ)]庄の岡見の家に仕へて栗林下総守義長と言うて、智略に長け、勇力優れた人であつた。此話は、天正頃の事と言ふが、其は疑へるにしても、前の三つよりは、古い形と信じてよいのである。
四
同じやうな考へ方の、今一例をあげると、名高い物臭《モノクサ》太郎なども、江戸時代の信州に伝つて居た形は、極めてありふれたものになつて居る。「中昔の事なるに」と室町時代の「物臭太郎の双紙」に見えた主人公は、伝説では江戸時代の人になつて居る。物臭太郎は、日本あるぷす[#「あるぷす」に傍線]登山鉄道と言ふ方が適当な、信濃鉄道の穂高駅の近所に在る、穂高の社の本地物なのである。だから、此方の話も、松本市から北西の地方で、根を卸したものと見てよからうと考へる。つまり物臭太郎出世譚の平凡化したものだ。
物臭太郎と言ふ人、或時自分の田を作つて居ると、見知らぬ女が手伝ひに来た。こんな働き者なら、女房にしたらよからうと言ふ考へで、家に入れた。非常によく稼いでくれる。子が産れて後、添乳してまどろむ中、尻尾を出して居た。其をよそから戻つた物臭太郎――今は亭主――が見つけた。此は、とんでもない処を見た。併し知らぬ風をしてやらうと、まう一返表へ出て、今度は、ばた/″\足音を立てゝ戻つて、何喰はぬ顔で居た。処があけ[#「あけ」に傍点]の日になると、子供が騒ぎ出した。母親が姿を隠したのである。いぢらしいから乳離れまで居てやつてくれと言つたが、とう/\戻らなかつた。其代りには、其家が段々富み栄えて、長者になつたと言ふのである。
なぜ此人を物臭太郎と言うたのか判然しない辺から見ても、頗古い話の「ある人」にあり合せの、其地方の立身一番の人の名をくつゝけたゞけで、つまりは田舎人のさうした点に対するものぐさ[#「ものぐさ」に傍線]から出たものであらう。此は「炭焼き」や「芋掘り」の山人の出世を助ける高貴の姫の話が、狐腹の家の物語に入り込んだものと見てよさゝうである。松本|平《ダヒラ》辺は、玄蕃《ゲンバ》[#(ノ)]允《ジヨウ》の様な長命の狐の居た処とて、如何様狐の話が多い。
保福寺峠の麓、小県郡の阪井は、浦野氏の根拠地であつた。浦野弾正尚宗の女は、小笠原家に嫁いで、長時を生んだ(又、正忠の女、長時の妻とも)。此奥方の生みの母も狐であつた。浦野家では、それ以来皆、乳首が四つある事になつた、と言うて居た。小笠原の奥方並びに、其腹の子たちには、そんな評判は立たなかつたが、其でも狐だけは、小笠原家につき纏うて居る。小笠原家が、豊前小倉に国替への後、突如として狐が姿を現した。貸本屋本から芝居へ移つて、今尚時々見聞きする、小笠原隼人を中心とした小笠原騒動の一件は、由来が遠い処にあるのである。長時は、小笠原家には大切な人である。
蒲生氏郷も、狐の子だと言ふ伝へがある。偽書と称せられて居る「江源武鑑」と言ふのにある話で、尠くとも「江源武鑑」の出来た時に、さうした伝説が、何かの書物か、民間の伝へにあつた事だけは信ぜられる。
江州日野の蒲生氏定の奥方が、急に逃げ出して了うた。実は、三年前にほんとうの奥方をば喰ひ殺した狐が、後釜に据り込んで居て、忠三郎(氏郷の通称)を産んだのであつたと言ふ。さすれば、氏郷は狐の子であるから、秀いでた処があるのだ、と見た人々の心持がわかる。蒲生家については、別に狐腹なる為の身体上の特徴は言ひ伝へて居ない様だ。
こゝまで来れば、安倍晴明《アベノハレアキラ》の作つたと言ふ偽書――併し江戸の初めには、既にあつた――「※[#「竹かんむり/甫/皿」、第3水準1−89−74]※[#「竹かんむり/艮/皿」、第4水準2−83−69]《ほき》内伝抄」によつて、葛の葉の話が、ちよつと目鼻がつき相に見える。早急を尊ぶ態度の、おもしろくない事を証明する為に、仮りに結論を作つて見よう。
此は名高い話で、葛の葉の話の唯一の種の様に言うて来てゐるのであるが、此話は、江戸以前尠くとも室町の頃には、既に纏つて居たものと見られる。晴明の母御は、人間ではなかつた。狐の変化であつたのが、遊女になつて諸国を流浪して居る中、猫島に行つて、ある人に留められて、其処に三年住んだ。其間に子が出来たので、例の歌を残して去つて了うた。子は成人して陰陽師となつた。都に呼びよせられた時、母の恋しさに、和泉国信太[#(ノ)]杜《モリ》へ尋ねて行つて拝んで居ると、年経る狐が姿を顕した。其が、晴明の母の正体だつたといふのである。
合理的な議論を立てれば、人まじはりの出来ぬ漂浪民《ウカレビト》の女だから、畜生と見て狐になつて去つたといふのであらう。殊に信太[#(ノ)]杜の近くには、世間から隔離せられて居た村が今もあるから、其処から来た女だらうと言ふ様なことも言はれよう。こんなあぢき
前へ
次へ
全15ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング