、所属の社や寺の本殿・本堂に祀るところの本筋の神仏でない場合が多い様である。漂泊布教者は、大方は、神奴・寺奴出身の下級の人々であるが、其本所の本筋の神仏を持つて歩いたものと、さうでないものとがあつた様である。神人・童子以外にも、いろ/\な意味の半俗の宗教家が流離して遂には偉大な新安心を流布する事にもなつた。其はおもに、得度する事の出来なかつた寺奴の側で、神人の末は、多く浮ぶ瀬がなかつた様である。
高野山往生院谷の萱堂《カヤダウ》の聖は、真言の本山には、寄生物とも言ふべき念仏の徒であつた。これも元は、紀州由良[#(ノ)]浦の海人から出た寺奴であらうと思はれる。祇園の神人であつた摂津今宮村の神は「広田」である事は前に述べた。三輪の神人なる奄芸の里人の斎いた稲生《イナフ》の古社も、三輪明神には、関係がない様である。此事に就ては、いろ/\な事が考へられる。第一は、何の血縁もない奴隷に、家の神を拝ませる事をせなかつたからは、自由のなかつた神奴も、信仰は、古くから強ひられずに来たものと考へられる。第二は、神奴をおに[#「おに」に傍線]の後と見る事が出来れば、祖先が信仰せぬ神の庭に臨んだ習慣を其儘、祭りの人数には備つても、祀る所は其祖神なるおに[#「おに」に傍線]であつたであらう。第三は使はしめ[#「使はしめ」に傍線]を、神奴の祖先と考へたかも知れない、と言ふ点である。神の内容が分解して、手代《テシロ》なる「神使」の属性が游離して来ると、神・神主の間に血族関係を考へる習はしを推し及して、神使ひの血筋としての神奴と言ふ考へ方が、出て来る事もありさうだ。さうすると、元来神奴が持ち伝へて来た信仰の対象の上に、使はしめ[#「使はしめ」に傍線]の姿が重つて来る訣になる。かう言ふ風に想像して見ると、神人が使はしめ[#「使はしめ」に傍線]を駆使する様になる道筋も、わかる様である。何にせよ、神人・童子共に、普通と違うた祖先を持つて居るとせられた事だけは、事実らしい。さう言ふところへわり込み易いのは、動物祖先の考へである。
一二
安名と葛の葉の住んで、童子を育てたと言ふ安倍野の村は、昔からの熊野海道で、天王寺と住吉との間にあつて、天王寺の方へよつた村である。其開発の年代は知れない。謡曲「松虫」に「草茫々たる安倍野の塚に」とあるが、さうした原中にも、熊野王子の社があつて熊野の遥拝処にな
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