だが、其が民謡の形となるには、別の事情が入り用であつた。島には其要件が調うてゐなかつた。島の開発は、わりあひに遅れてゐた。唄も楽器も踊りも、地方《ヂカタ》で十分|芸道《ゲイタウ》化した時代であつた。特殊な伝統もない島の芸術は、皆、百姓と共に寄つて来た。祭礼も宴会も儀式も、必しも歌謡を要せなくなつた時代に始まつた文明は、後々までも、固有の歌を生まないものである。動機もあり、欲求もあつて、其様式がなかつたのである。地方《ヂカタ》から伝はる唄を謳ふ位では、其が新しい音楽を孕み、文学を生み落す懸け声にはならなかつた。悲しんでも、其を発散させる歌もない心は、愈、瞳を黒くした。夏霞の底に動かぬ島山の木立の色の様に、静かに沈んで、凝つて行つた。
八木節のはやつた年であつた。又、私も「かれすゝき」のはやり唄を、二三日前、長崎の町で聞いた時分であつた。心の底に湧き立つ雲の様な調子を、小唄の拍子にでも表さねば、やり場のない様な気分の年配である。まだ病後のをつくう[#「をつくう」に傍点]さが残つてゐるのかと思ふと、尠くとも目をあげた顔には、一面、若い快さを湛へてゐるではないか。舷《ふなべり》にかけた腕も、投げる脚、折り立てた膝も、すべて白飛白が身に叶ふ如くさつぱりと、皮帯のきりゝとした如く凜として居る。よい家・よい村・よい社会を思はせる純良な、少年の身のこなし、潤んだ目に、まづ島人の感情と礼譲とを測定した事であつた。
私の空想が、とんでもない方へ行つてゐる間に、此若者の姿が見えなくなつた。艙※[#「片+總のつくり」、第3水準1−87−68]《ふなまど》の下から、両方へ漕ぎ別れて行つた二艘の一つに、黒瞳の子は薬瓶のはんけちの包みをさげて、立つてゐる。瀬戸の岸へ帰るのだ。此島にゐる間に、復此壱岐びとの内界を代表した目の主に、行き会ふこともあるだらうか。幾年にもない若々しい詩人見たいな感情をおこして居ると、旅の心がしめつぽくなつて来る。そんなことはよしにして、まあ初めて目に入る、島国の土地の印象を、十分にとり込まう。
二
裏から見た港の町の寂しい屋並みの上に、夏枯れ色の高い岡が、かぶさりかゝつてゐる。艮《ウシトラ》が受けた山陰《ヤマカゲ》の海村には、稍おんもりと陰《カゲ》りがさして来た。まだ暗くなる時間ではないがと※[#「くさかんむり/(さんずい+位)」、第3水準1−91−13]《ノゾ》きこむ機関室のぼん/\時計は、五時に大分近よつたと言ふまでゞある。少し雲の出て来た様子で、蹄鉄形《カナグツガタ》の入り海の向う側の鼻の続きの漁師《レフシ》村は、まともに日を受けて、かん/\と照らされ出した。此黄いろい草の岡にも、強い横日がさして来た。其山の上へ、白い道がうね/\と登つて行つて居り、ぽつ/\と小さな墓が散らばつて見える。二三个処、旧盆過ぎて、まだなごりの墓飾りがちら/\する。絵巻物のまゝの塔婆の目に入るのも、なほ此海島に続いてゐる、古風にひそやかな生活を思はせ顔である。其阪道を、自転車が一台乗りおろして来た。あの上は台地だと言ふ事が察せられる。此が十分二十分とは言はない間、見上げて居た高台の崖の側面の村の全面に動いた物の、唯一つである。かう思うて来ると、島の社会の幽《カソ》けさに、心のはりつめて来るのが感じられる。
花やかな色で隈どつた船が二艘、大分離れて、碇を卸してゐるのは、烏賊釣りに来てゐる天草の家船《エンベ》だ、と教へてくれた。其は、機関の湯を舷に汲み出して、黒い素肌を流して居る船員の心切ぶりだ。出稼ぎに来て、近海で獲つた魚類は、皆壱州の三つ浦――郷野浦・勝本と此蘆辺――で捌いて、金に換へる。其で、目あての獲物が脇の方へ廻る時分になると、対馬へなり、地方《ヂカタ》へなり行つて、復そこで稼ぐ。壱岐のれふし[#「れふし」に傍線]だつて、やつぱりさうであつた。対馬から朝鮮かけて、漁期には村を出払つて、行つてゐる。土地に始中終《しよつちゆう》居て、近海ばかりをせゝくつて[#「せゝくつて」に傍点]ゐるのは、蜑の村の人たちである。其でも近年は、朝鮮近海へ出て行く者も出来た。
こんな話を聴いてゐる中に、地方行きの荷役をすませ、きまつた時間のありだけ、悠々と息を入れてゐた火夫は、なた豆のきせる[#「きせる」に傍点]をたばこ入れ[#「たばこ入れ」に傍線]に挿んで、立ち上つた。
海鴉と言ふ鳶に似た鳥が、蚊を見る様に飛び違ふ中を、ほと/\と汽鑵の音立てゝ、磯伝ひに、島を南にさがつて行つた。ひやついて来たのは、風が少し出たのである。船の大分横ぶれ[#「ぶれ」に傍点]し出したのは、波が立つて来たのである。今晩あたりは一荒《ヒトア》れ来るかなあなどゝ、まだ船に残つてゐた客は、あがる支度を整へて、甲板へ出て来て、噂しあうた。
島の東岸、箱崎・筒|城《キ》の磯には、黒い
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