様に通り過ぎた一度きりの史実が、其子孫或は其世近く移り住んだ人たちの、次の代あたりからは、もうすつかり忘れられた。さうして、もつとずつと古くから続いた、歴史よりも力強い年中行事だけが、記憶の底にこびりついてゐるのだ。彼等の歴史は、合理的に考へた民間伝承の起原説明だけであつた。あつたことゝ言ふよりは、なかつた事の反覆せられて、あつた以上の力を持つて、ある時代まで生活様式を規定した事のなごりなのであつた。
壱州の民は、対岸の九国・中国から来た者の末が多い事は知れる。今残つてゐる民間伝承の如きも、或は、其々の郷貫から将来したものも勿論あらう。が併し、壱岐の島に最古くから居残つた村々の伝承が、此島に来住した新渡民の間に、ある日常行為の規定を持つて来た事も考へてよい。土地についた物の授受、地名・道路・神精霊の所在からはじめて、特殊様式の上に、存外多くの模倣・継承が行はれた。神に就ての考へ方なども、恐らく、後世あつた如く、海の彼岸から来る神ばかりを信じた民ばかりではなかつたであらう。其が段々、一つの傾向に進んで行つたものである。五島・平戸・天草・山陰・山陽の辺土、北九州の海村、対馬・隠岐に亘る島々の中、伝承の上から見れば、五島に最類似を持つてゐる。けれども、今伝へる如く、五島の移民が島の再建の率先者と言ふ風には、考へられない。長い武家の世に、次第に渡つて来た民の外に、古く五島に別れ、茲に居ついて、更に、一部分の対馬へ行く者を見送つた人々の伝承が、近古五島から将来したものゝ様な貌をしてゐる事もあるであらう。

     六

もつと驚くべきことは、壱岐の島に伝へて居さうな予期を持つて行つて、すつかり失望させられた、壱岐の海部の占ひであつた。壱州に行はれた後世の占ひは、陰陽師配下の唱門師等の伝へたものであつた。海部なども、二部落あるが、片方の八幡蜑と言ふのは、極の近代移住したものらしく、壱州東海岸一帯の海の外潜くことは免されて居なかつた。渡良《ワタラ》の小崎《コザク》蜑と言ふのは、筑前志賀島から来たと言ふ伝へがあつて、壱州を囲む海全体に権利を持つてゐた。此とて、所謂|秀手《ホツテ》の占《ウラ》へと称せられた亀卜に熟した、壱岐の海部の後と言ふことが出来ないもので、やはり、近代の移住と言ふべきであらう。
上代の壱岐の海部は、氓び絶えたか、退転したか、職替へをしたかの三つの中であらうが、私は、第三の方を重く見てゐる。壱州の民は、わり[#「わり」に傍線]の班田を受ける事の出来るのと出来ないのとの二種の群居に分れてゐた。浦に住んで、漁業・航海業を認められてゐた町方の人は、其代り、わり[#「わり」に傍線]を受ける事は出来なかつた。唯、今ある武生水村郷野浦の端、山陰にある本居《モトヰ》の村は、郷野浦の本拠なのであるが、此はれふし[#「れふし」に傍線]村とは言ふが、蜑に近い扱ひを受けてゐた。班田に与る事の出来ないと言ふのも、稼業の性質として、田が作られないからではない。片手間に農作をする例は幾らもある。自家の収獲なる海産物を持つて出て商ふ事から、蜑の家の女は次第に商業に専門になつて、男蜑ばかりの小崎の様な形式が生じた。男は潜きの外に、いざり(沖漁)に熟して、蜑よりも漁師に傾く。
壱州では、町方《マチカタ》町人でない村方百姓の中、浦に沿ふ村では、わり[#「わり」に傍線]を受けながら、漁業をも兼ねてゐた。町方で、商買のない者も多かつた。わり[#「わり」に傍線]も与へられないのだから、村方へ卵を買ひ出しに行つたりして、商買に似た事もやつたりして、口過ぎした者もあつた。新田を開いて、わり[#「わり」に傍線]以外に地を持つ事は許されてゐた事などから見ても、大体血統的に町人・百姓の資格が極つて居て、土地の所有権は先天的のものと考へられて居たのだ。だから、町人と村方百姓の漁業を営む者との間の区別の立ちにくい事情の者でも、村に生れた資格として、わり[#「わり」に傍線]を受け得たのである。
島の町人の職業は、前に挙げた位の単純なものであつた。工業の方面の諸職は、志原の百姓に多かつたことを見ても、町人の範囲は極めて狭く、土地の所属決定した後代に移住した者又は、本来土地に関係のない生業を持つた者、海岸の除地に仮住してゐる者として、政治的交渉を持つことの殆なかつた者――元は、毫もなかつた――此等の群居民が、村をなし、土地の政治の支配を受ける様になつても、田はわられなかつた。此は、蜑の団体から発達したことを見せてゐるのだ。町人の普通の者で、身分の低いものを見れば、蜑との繋りが見えよう。村方の並みの百姓と同格で、町役を勤めることの出来ぬ階級をかこにん[#「かこにん」に傍線](水子人)と言ひ、又浦人とも言ふ。平戸侯の参覲には、水子《カコ》として、船役を命ぜられた。町人の代表階級なる、浦人
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