キジン》――即、役霊――の事を、後にみさき[#「みさき」に傍線]とも称へてゐた。処が、壱州に来た陰陽師の徒は、みさき[#「みさき」に傍線]を傭ふのに、簡単な方便があつた。其は、やぼさ[#「やぼさ」に傍線]と言ふ島に多く居る精霊を、呪力で駆使する事にした。
壱岐には矢保佐・矢乎佐など言ふ社が、今も多くあり、昔は大変な数になる程あつた。近代では、どうした神やら訣らなくなつてゐるが、香椎の陰陽師の後の屋敷に一个処、みさき明神[#「みさき明神」に傍線]と称へて祀つてゐて、古くはやはり、やぼさ[#「やぼさ」に傍線]であつた。志原には、陰陽師の屋敷のある岡続きに、以前崇めたと言ふやぼさ[#「やぼさ」に傍線]が一个処ある。対馬にやぼさ[#「やぼさ」に傍線]と言うてゐるのは、岡の上の古墓で、より神とも言ふ相である。古墓の祖先の霊で、憑《ヨ》るからのより神[#「より神」に傍線]であらう。さすれば、壱岐に数多いやぼさ[#「やぼさ」に傍線]は元古墓で、祖霊のゐる処と考へてゐたのが、陰陽師の役霊として利用せられる様になつたり、其もとが段々、忘却せられて来たのだらう。
やぼさ[#「やぼさ」に傍線]の崇敬が盛んであつたことは、陰陽師の勢力のあつたことを示すものである。此徒が、陰陽師・唱門師として「島の人生」に統一の原理を教へ、芸術の芽を栽ゑて置いたことは、察せられる。志原の神主の祀る一个処には、行器の形を土で焼いた祠が据ゑてあつた。
島に僧侶の入つたのは、わりに新しい様だ。其為、島に学問の起るのは遅れた。島人の間に、今も伝つて居る百合若説経といふ戯曲は、舞の本・古浄瑠璃のではなく、いちじよ[#「いちじよ」に傍線]と言ふいちこ[#「いちこ」に傍線]の類の者が語るものである。琵琶弾き盲僧も此を語るが、正式にはしない。箱崎の芳野家の「神国愚童随筆」といふ本に、壱岐の神人の事を書いて、命婦《イチ》は女官の長で、大宮司・権大宮司の妻か娘かゞなるとある。さすれば、いち[#「いち」に傍線]は陰陽師の妻が巫女なる例である。
いちじよ[#「いちじよ」に傍線]はやぼさ社[#「やぼさ社」に傍線]に常に参ると言ふ。百合若説経は、弓を叩いて「神よせ」を誦した後に唱へる。さうやつて居る中に、生霊・死霊等が寄つて来ると言ふ。いちじよ[#「いちじよ」に傍線]と陰陽師との関係から考へると、百合若説経は、唱門師が持つて来たものら
前へ 次へ
全23ページ中18ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング