、走つてゐる。
『違ひましたら、お免しまつせ。黒崎の神官さまの、東京にお出でる兄息子様でおいでまつせんか。』
瞬間、とんでもない人違ひに当惑させるやうな、だしぬけの問ひをかけながら、話仲間に割りこんで来たのは、四十そこ/\の湯帷子《ユカタ》がけの、分けた頭に手入れの届いてゐる点だけで、相当な身分を思はせる人だ。私は「いゝえ」と答へる下から、その私のとり違へられた当人が、一面識のある人なのに考へ当つた。私のなぢみ深い学生の兄さんで、くろうと好みの新聞の、而も、経済方面に務めてゐる人である。
かうしたことで、さびれた輪廓を、私の心に劃しつゝ居る此島から、あゝした専門の人も出たのかなあ。こんなこみ入つたことを、咄嗟の聯想に思ひ浮べた。私を初めての島渡りだと知つた、此中年の良い闖入者は、もう暗くなりかけた見上げる様な崖の入り込みを、あち見こち見して「此辺では、御座りませんでしたらうか」と老体の方に相談かける様な調子で言ひかけながら「ちよつと見えまっせんが、柱|本《モト》岩といふのが、どれ/\あなたのお持ちの地図の――と、こゝに載つてますね。此岩が、ちようどあのあたりになるのですが、一度見たきり長くなるので」と言ひながら、聞かしてくれた話が、早《ハヤ》、蒼茫として来た波の上にも、聴き耳立てゝ、相槌うつ者が居る、そんな心持ちを起させた。此気分の、私に促した不思議な幻想がとぎれない中に、もう来た。駆逐艦が二艘かゝつてゐる川尻の様な処から、長い水道を這入つて行つた。郷野浦である。外光の中で、人顔も見えぬ位になつても、町にはまだ、電気が来ぬらしい。泊り舟の一つに、蚊やりの燃え立つてゐるのだけが、何の聯絡もなく、古い国、古い港に来たなあ、と言ふ感じを唆つた。
はしけに移つて、乗つたかと思ふと、すぐ岸の石段にあげられた。私に、壱岐の島の民間伝承を調べる機会と、入費とを作つてくれたのは、此島を出た分限者《ブゲンシヤ》で、島の教育の為に、片肌も両肌も袒いでかゝつてゐる人である。此人の教へてくれた宿屋へ、両手に持つた大きな旅かばんを、搬んでくれる車も見えなかつた。船の上り場の立て石の陰から「お荷物持ちまっしゅか」と声をかけて、歩き寄つた女の人があつた。船の中の少年を、五十前後のお婆さんにした様な全体の感じ、お歯黒をつけた口元、背中にちんまり結んだ帯の恰好、よほど暗くなつた、屋並みはづれの薄明り
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